日本SFが生んだ奇書、得体の知れぬ迷宮的作品
吃驚! ドッキリしゃっくり! 飛浩隆がこんなゲテゲテな小説を書くとは!
いや、細部に目をこらせば、まぎれもなくこの作者ならではの筆致なのだ。端正な細工、精緻な言語感覚、鮮烈なイメージに満ち満ちている。
しかし、そこから期待されるものを軽やかに裏切っていく—-「台無しにしている」とさえ思う読者がいてもおかしくない—-作品全体の異貌はなんだろう。『零號琴』という名で組みあげられたこの言語構造物は、遠くから眺めれば絢爛豪華なジャンクであり、近づいてみればダイナミックに鳴動する迷宮である。
日本推理小説の領域では『ドグラ・マグラ』『黒死館殺人事件』『虚無への供物』『匣の中の失楽』を四大奇書と呼ぶが、ついに日本SFも沼正三『家畜人ヤプー』と並び称すべき奇書を得たことになる。
ただし、『家畜人ヤプー』では、張り巡らされたペダントリーの奥にマゾヒズム的世界律という巨魁な一本柱が屹立していたのに対し、『零號琴』はそうした小説的中心はなく部分ごとが無定型に増殖している観がある。使い古された二分法だけど、偏執的なヤプーに対し、分裂的な零號琴とでもいおうか。
もっとも、物語の水準でみれば、『零號琴』にも象徴的中心と呼べるものがある。それは、惑星〈美縟〉の首都〈磐記〉全体に配置された巨大楽器〈美玉鐘〉だ。〈美玉鐘〉はこの惑星の起源に深く関係した伝説的存在であり、かりに実在したとしてもとうに失われたはずだったのだが、三十年前ほどから〈美縟〉の各地でそのパーツが発掘されはじめた。まるで〈美玉鐘〉自体が再臨しようとしているかのように。ひとびとは開府五百年祭にあわせて〈美玉鐘〉を組みあげ、秘曲〈零號琴〉を演奏しようと企てた。
そこで呼びよせられたのが、特種楽器技芸士のトロムボノクである。この宇宙には、地球由来の楽器の概念から大きく逸脱した、扱いかたしだいで非常に危険な、しかし音楽を奏でることにはかわりのない特種楽器が数々あり、彼はその専門家なのだ。ロマンチックな宇宙と不思議な音楽。この組み合わせはサミュエル・R・ディレイニー初期作品を髣髴とさせ、また奇怪な楽器の描写はジャック・ヴァンスばりだ。また、人類の宇宙展開は自力によるものではなく、〈行ってしまった人たち〉が残した超テクノロジーの断片を拾い集めるようにしておこなわれた。ラリイ・ニーヴンの《ノウン・スペース》シリーズと同様の設定である。もっと細かいことをいえば、トロムボノクに随伴する、美少年然としたシェリュバンは極寒の惑星〈霜だらけβ(フロスティベータ)〉開発のために人間を再構成した改変体であり、常人とはまったく異なる身体感覚の持ち主なのだが、これはあきらかにロジャー・ゼラズニイ「フロストとベータ」からの引用だ(SFファンはここで「飛さん、遊んでいるなあ」と嬉しくなるわけですね)。
こうした1950年代・60年代のアメリカSFの成果を換骨奪胎しながらも、『零號琴』の物語はもっとノリが良くて、どことなく現代日本のアニメ的なのだ。キャラクターの造型とか、会話のテンポとか、ネタの入れかたとか。
それが全開になるのが、五百年祭で〈零號琴〉の披露とともに演じられる、全住民参加の大假面劇の内容だ。もともと〈美縟〉には伝統的なサーガがあって、演じられるたびにアレンジをするのだが、こんかいそれを担当した台本作家ワンダが選択したのは、子ども番組『仙女旋隊 あしたもフリギア!』とのマッシュアップだった。『フリギア!』は十シーズンにわたるシリーズで、放映当時の子どもでこれを観なかった者はいないくらいの人気を博した。ワンダが目論むのは、『フリギア!』シリーズ全体の最終回『まじょの大時計』を、假面劇に託して再解釈することである。
つまり『零號琴』という作品の作中作として美縟に伝わる大假面劇サーガがあり、それにまた『仙女旋隊 あしたもフリギア!』が重ねあわされるという、フィクションのアクロバットである。もちろん、飛浩隆が定型的なメタフィクションなどで満足するはずはない。『零號琴』の下位に『フリギア!』があるのではなく、『フリギア!』が『零號琴』を逆攻的に食らっていく—-まるで胃袋が持ち主の身体を消化・吸収していくような、怒濤の展開へとなだれこんでいく。
ええい、この際だから、正直に言ってしまいましょう。この小説のクライマックスはなにがどうなっているのか、よくわからない。
センテンス単位で追えば、表現は明瞭であり、ストーリーのつながりも滑らかだが、『零號琴』という小説空間がどう構成されているか、読者は途方にくれるのだ。それはテキスト上のことだけではなく、もっと実体的な〈美縟〉という惑星の成りたちにも関わっていて、それがこの作品がSFである意味だともいえる。
手がかりといっていいかわからないのだけど、作品中にこんな叙述がある。
「秘曲〈零號琴〉の譜面はどこにもない。かつていちども存在しない。 たぶん、鳴ることによって、それ自体を抹消するような、そんな曲なんだろう—-美縟びとが過去の一時期の記憶を持たないように」
あるいは、
どのような舞台芸術でも、見飽きた演目が、斬新な新演出でその本質をつかみ出されて面目を一新することがある。しかしこと假劇に限っては、原理的にほぼ不可能なのだ。演者も観客も假劇に参加するには、假劇の連合に取り込まれるしかない。假劇の支配に服しながらその假劇じたいを転覆することの困難さ。それがこの五百年間、美縟を安定させ、しかし膠着させてもきた。
これら手がかりは『零號琴』を解釈する鍵にはなりそうだが、それと同時に、これもまた『零號琴』が周到に仕組んだワナのような予感がしてならない。「これで解ける!」と調子に乗って踏みこむと、ずぶずぶと底なし沼へ沈みこんでしまいそうな。
ほんとうに得体のしれぬ作品というしかない。
(牧眞司)
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