元恋人同士の猫との別れ〜向井康介『猫は笑ってくれない』

元恋人同士の猫との別れ〜向井康介『猫は笑ってくれない』

 ふだんはあまり読まない恋愛小説(かどうかは読み手によって受け止め方はさまざまだと思うが、個人的には本書は恋愛ものに含まれると捉えている)を手に取ったのは、やはり「猫」に負うところが大きい。私自身は飼ったことがないので断言はできないが、きっと著者は猫に慣れておられるに違いない。登場人物たちも猫好きの占める割合が大きい。とはいえ本書における登場人物ならぬ登場猫・ソンは腎不全を患っており、徐々に弱っていく様子も描かれるので、愛猫家たちに手放しでは薦められないが。

 本書の主人公・早川は脚本家。仕事に行き詰まり、酒とバーを切り盛りする摩理に寄りかかって日々をやり過ごしていた彼の元に、5年前に別れた昔の恋人で映画監督の漣子から電話がかかってくる。一緒に暮らしていた頃に飼い始めた猫のソンの余命がもう長くはなさそうで、あなたにも知らせておかなくてはと思ったのだと。翌日の日曜日、早川は漣子が結婚相手の新聞記者・宮田と住むマンションを訪れた。ソンの姿を見て涙ぐむ早川。そのうちに買い物に出ていた宮田が戻ってくる。帰ろうとする早川をよそに調理を始める漣子と宮田。結局3人で鍋を囲むことに。一見何の不自然さも感じさせない漣子と宮田に対し、早川は居心地の悪い思いを拭えない。世間話が仕事のことに及び、漣子はソンがこの状態では家を空けられないから現在オファーされているドラマの話を断ろうと考えていると語る。宮田の膝に乗って主人の口元をなめるソンの姿を見て、早川の口をついて出たのは「俺が見るよ」という言葉だった。その申し出は受け入れられ、早川が漣子たちの家に通って夫妻が帰宅するまでの間ソンの面倒を見るという、奇妙な協調関係が始まった…。

 人間の面倒くささにくらべると、猫はシンプルでいいなあと思わないでもない。早川がソンの面倒を自分が見ると言ったのは、「決して嫉妬から出た言葉ではなかった。けれど、嫉妬でなければ何だと問われたら、何も答えられないかもしれなかった」と形容されるような複雑な感情によるものだ。衝動的に漣子との関わりを復活させたものの、改めて宮田の気持ちに思いを馳せていたたまれなさを感じる早川。ずっと飄々としていた態度を崩さずにいたけれども、あるとき不意に心情を吐露する宮田。「表情がないというか、乏しい」「態度にも出さないし、痛いのか、辛いのか、嬉しいのか、こっちで想像して考えてやらないといけないのが、他の動物と違って少しばかり切ないというか、いじらしいというか、やりきれない」といった猫の特徴が当てはまると言われる漣子だが、猫ほど周囲を気にせずに生きられるわけでもないだろう。やはり人間は、どんなに自由なようでも他の生物よりは複雑さを持つ生き物だ。心優しい飼い主に恵まれた猫だったら、餌をもらって、眠いときに寝て、起きたい時間に起きて、働かなくてよくて、日だまりで好きなだけゴロゴロできる。猫としてそういった幸せを存分に味わうのもいいだろうなと夢想する。それでも人間だからこそ、対人関係の中で思いやりに触れたり難しい仕事をやり遂げたりしてこそ得られる幸福というものがある。これは、猫と人間のどちらがいいかという単純比較ではない。猫と違って、人間は言葉を使って他者と関われる。それが煩わしい場合もあるけれど人間として生まれたからには、会話によって他者と関われる喜びを大切にしながら生きていかなければと思う。

 かつて漣子とソンとともにあった早川の生活。早川の記憶の中の彼らは、とても幸せであるように思われる。それなのになぜ彼らは、いや、多くの人間は、何よりも大切なものを手放してしまうのか。なぜ”安定した生活”的なものに倦んでしまいがちのか。どんなに悔やんでも、過去に起こったことは変えられない。私たちは決して逆行することのない時間の流れを生きるしかないのだ。それでも早川たちのように、もう一度昔のことを振り返って今の自分たちの気持ちを整理できる場合もある。それはもちろんソンの存在と、ある時期確かに早川と漣子を結びつけていた愛情があったからではないか。

 著者の向井康介さんのお名前は、映画に詳しい人ならピンとくるかもしれない。「ふがいない僕は空を見た」「陽だまりの彼女」「聖の青春」などは本好きにはなじみ深いタイトルかと思うが、これらが映画化された際の脚本家なのだ。とはいえ、ご自身で長編小説を書かれたのは『猫は笑ってくれない』が初めてとのこと。読みながら自然と情景が浮かんでくるのが、さすが映像に携わっている人の文章だという気がする。あと、登場人物たちがちょっとずつ自分勝手なところが、リアルですごいなと感じた。そういえば、もうひとつ猫には味わえない楽しみがある。猫だったら本が読めないなあと考えると、もうちょっと人間がんばってみようかと思います。

(松井ゆかり)

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