ノンフィクション作家・石井光太が描く、知られざる”原爆資料館生みの親”の存在
ノンフィクション作家・石井光太さん。アジアの物乞いや障害者を取材したデビュー作『物乞う仏陀』(文藝春秋刊)以降、戦災孤児を取り上げた『浮浪児1945─戦争が生んだ子供たち』(新潮社刊)、近年では国内の虐待事件の深層に迫った『「鬼畜」の家 わが子を殺す親たち』(新潮社刊)、『43回の殺意 川崎中1男子生徒殺害事件の深層』(双葉社刊)で高い評価を得ています。
今回、石井さんが新刊『原爆─広島を復興させた人びと─』で描いたのは、原爆投下後の広島の復興に尽力し、「国際平和文化都市ヒロシマ」の発展に関わった4人の人物。
なかでも本書が丹念に描いているのが、広島平和記念資料館(通称・原爆資料館)の初代館長・長岡省吾。修学旅行の平和学習の場として、全国から多くの人々が来館する同館ですが、その設立に貢献し、いわば”原爆資料館生みの親”と言っても過言ではない長岡の業績は、後世にあまり知られていません。
鉱物学の研究者だった長岡は、被爆資料を保存する必要性にいち早く気付き、原爆投下2日後から、放射性物質の残る焦土に足を運んで資料を収集し、自身も原爆症の症状に苦しみました。本書では遺族や当事者に取材を重ね、これまで明らかになっていなかった実像──陸軍との関係、戦後に起こった家族との確執、館長を退任した本当の理由──に迫っています。
長岡の実像のほかに、生前の長岡と交流があり、同館の第7代館長を務めた高橋昭博、公職選挙による最初の広島市長で”原爆市長”と呼ばれた浜井信三、広島平和記念公園・広島平和記念資料館を設計した建築家・丹下健三という4人の功績を追った本書。
戦後73年目を迎え、戦争の記憶も遠いものになりつつある今日、原爆資料館や原爆ドーム(※原爆投下当時は広島県産業奨励館)を訪れたことがあっても、その功労者の素顔を知っている方はそう多くないはず。この夏、彼らの知られざる足跡に目を向けてみてはいかがでしょうか。
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