「誰にも負けない」成績トップのファンドマネージャーが銀行を辞めた理由――水野司(事業経営/幼児教育・訪問看護)

「誰にも負けない」成績トップのファンドマネージャーが銀行を辞めた理由――水野司(事業経営/幼児教育・訪問看護)

大手信託銀行で10年以上にわたって、ファンドマネージャーとして高い運用成績をあげながら、幼児教育と訪問看護という異分野で起業。これまでとは無縁の分野に、果敢に挑戦をしているのが、株式会社えんパートナーズの水野司さんです。

彼の挑戦をかきたてるものは一体何だったのか? 安定した職を離れ、起業に踏み切る時に不安はなかったのか? 全2回の記事で迫っていきます。第1回目となる今回は、銀行を辞めた背景と、起業に踏み切るに至った「想い」に迫ります。

【プロフィール】

水野 司(みずの つかさ)

国内大手信託銀行のファンドマネージャーとして顕著な運用成績を収めながら、銀行を退職。その後、2016年8月に株式会社えんパートナーズを設立し、幼児教育や訪問看護など未経験の分野で複数の事業を同時に立ち上げる。

銀行を辞めたのは、「プレイヤーでいられなくなったから」

――もともと、どのような経緯でファンドマネージャーになられたのでしょうか?

ある大手信託銀行に就職し、最初は銀行の窓口業務をしていたのですが、入社3年目の時期に社内公募で投資部門への異動を希望し、選考に通ったのがきっかけです。

投資部門に異動して最初の5年程度は上司の指示のもと動いていましたが、それから退職するまでの約10年間は、ファンドマネージャーとして顧客からお預かりした資金を、私の判断で投資して運用する仕事をしていました。

――資産運用の成績はかなり良かったようですね。

自分でも、「ファンドマネージャーの仕事は向いている」と思っていました。私は国内株式による運用を主に行っていましたが、この分野に関しては、正直、上司や先輩も含め誰にも負ける気がしませんでしたね(笑)。ファンドマネージャーになった最初の頃は、「自分で数字を出せば評価される」というシンプルな状況でしたから、毎日の仕事がとても楽しかったです。

――そんなファンドマネージャーの仕事を最終的には辞められたわけですが、何があったのでしょうか?

最初のきっかけは、部下がつき、自分ひとりではなくチームとして成績を上げなくてはならなくなったことに少し不満を感じたことにあります。銀行という組織にいる以上、チームで動くのは当たり前なんですけど、ずっとプレイヤーだった人間としては、必要な情報収集や投資判断に費やせていた時間が減ることにフラストレーションが溜まっていたんでしょう。

また、社内で「ファンドマネージャーの投資判断プロセスをマニュアル化して、個人差が出ないようにしよう」という動きがあり、その対応のために、ますます資産運用に専念できなくなったのも、結果として退職に向けて拍車をかけることになりました。当時、ファンドマネージャー個人の能力によって運用成績に大きな差がある状況が問題視されていたんですよね。ただ、私は自分があげたパフォーマンスは、ひらめきや、チームワークなど、言語化できない要素による部分が大きいと思っていたので、マニュアル化に積極的になれなかったんです。もちろん、マニュアルで、感情に流されて間違った判断をするリスクを防げるなどメリットがあることも理解してはいましたが、銀行全体の運用成績は落ちると思っていましたので……。

とはいえ、私個人がいくら抵抗していても、やはり組織ですから、最終的には役員の指示があれば従わざるを得ない。なかなか考え方の折り合いをつけるのが難しい状況になり、私自身だんだん疲弊してしまい、最終的には、あれほどこだわっていた資産運用の成績にも興味を持てなくなっていたので、「このままではいけない」と思い、退職を決めました。

職業人生も後半戦に入ったからこそ、“これまでと違う”ことをしたい

――退職後のキャリアは、どのように考えられていたのでしょうか?

銀行を辞めた時点では、転職先はまったく決めていませんでした。漠然と、「別の会社で資産運用の仕事を続けるんだろうな」とは思っていましたが、久しぶりに自由な時間ができたので、じっくり考えてみたいと思ったんです。そこで、キャリアの一つの選択肢として「起業」も頭によぎり、「社会起業大学」というビジネススクールに通うことにしました。

社会起業大学には、ソーシャルビジネスなどの起業を志す方々も通われていましたが、私の場合は特にやりたいことが固まっていたわけではありません。学校を卒業する時点でも、実は現在のように訪問看護などの分野で起業することは考えていませんでした。ただ、社会起業大学で色々なバックグラウンドをもつ方々から刺激を受けたこともあり、「これまでと違うことをしたいな」という風に気持ちは変化していましたね。

当時、私はすでに40歳を過ぎていて、仮に定年が60歳とするとほぼ半分は過ぎていたわけです。もともとの私が考えていたように投資の世界で仕事を続ければ、楽に成果を出すことはできたでしょうが、「それはちょっとつまらないな」と感じたんです。ですから、ビジネススクールを卒業してから大手の資産運用会社からお誘いをいただいたんですが、結局お断りしました。

はじめての起業で、3つの事業を同時に手がける

――その後、起業されていますが、どのような事業をされているのでしょうか?

2016年8月に株式会社えんパートナーズを設立し、最初にはじめたのが、知能などの発達を目的とする「幼児教室」と、運動能力を育てる「スポーツ教室」です。それぞれ、幼稚園から小学校低学年までのお子様を対象としています。それから少し間が空いて2017年の7月にはじめたのが、ご利用者様のお宅に看護師などを派遣する「訪問看護事業」です。2018年1月にスポーツ教室は事業譲渡しましたので、現在は幼児教育と訪問看護の2つの事業を行っています。

――同時に3つも事業を手がけられるのは、大変ではなかったですか?

まわりの人からは、「一気に3つもやるもんじゃない」と心配の声もいただきました(笑)。ただ、こうした判断をしたのは、過去にファンドマネージャーだったときの考え方が影響していると思います。投資先を判断をするときは、マーケットの状況を見て、「利益が出る」と判断すれば、1つだろうが3つだろうがGOなんです。逆にやらないと機会損失になりますからね。

ですから、今でこそ事業に対する使命感も感じていますが、当初は、「経営が成り立つか」という判断軸を第一に決めました。幼児教育にはもともと自分の子育てを通じて関心はありましたが、訪問看護に関してはまったく未知の領域でしたから、事業性が見込めなければ、あえて選ぶことはなかったでしょうね。

――そこまで事業性にこだわったのはなぜでしょうか?

社会起業大学で学んだり、ソーシャルビジネスを手がけるベンチャーをお手伝いをしたりするなか、いかに社会的な意義のあるビジネスを志していても、まずは売上を生まなくては、結局は事業を止めざるを得ず、社会的なインパクトも生み出せないと感じたんです。ですから、まずは「事業性ありき」で選択しようと考えました。

幼児教室やスポーツ教室、そして訪問看護という3つの事業は、それぞれのマーケットの状況やビジネスモデルからも、事業として継続できるという見込みがありましたから、自社の事業とすることにしたというわけです。

とはいえ、実際に起業してみると、想定とは違うことも少なからずあったんですが--。

次回へ続く 文・小林義崇 写真・小出和弘

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