“ゲームを遊ぶ = 仕事“になる時代がようやくやってきた|ローリング内沢さん(ゲームライター/編集者)

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さまざまなシーンで活躍しているビジネスパーソンや著名人に、ファミコンにまつわる思い出から今につながる仕事の哲学や人生観についてうかがっていく本連載「思い出のファミコン – The Human Side –」。

今回ご登場いただくのは、『週刊ファミ通』の編集者を経て現在はフリーのライター・編集者、またゲーム批評家として活動されているローリング内沢さん。業界の黎明期からさまざまなゲームに触れてきて、その後ゲーム情報誌の編集者になるまでの道のりとその仕事の内幕、さらにeスポーツに至るゲームビジネスの軌跡について語っていただいた――

ローリング内沢さん プロフィール

1970年東京都出身。ゲーム情報誌『ファミコン通信』(現『週刊ファミ通』)に入社後、編集者として同誌の名物コーナー「クロスレビュー」にも登場する。2000年よりフリーランスのライター、編集者、ゲーム批評家として活動。クラブイベントDJとしての顔もあり、企画・プロデュースも手がける。

100円玉を積み上げて遊んでいたゲームが自宅でできる感激

―― 元々はアーケードゲーム少年だったそうですね?

そうです。ゲームセンターに入り浸っていて、アーケードゲームは「ブレイクアウト」(ブロックくずし)の頃からプレーしていました。”インベーダー道場”っていう名のゲーセンだったんですけど、今みたいに風営法の年齢制限がなかったから、小学生でも夜まで遊べたんです。

自分でファミコンを買ったのは「スーパーマリオ」が出た1985年。ちょうどファミコンブームが高まってきた時期で、いわゆる抱き合わせで買ったのですが、ファミコン本体と「スーパーマリオ」と「ハイパーオリンピック」とその専用コントローラーのハイパーショット。まあ、抱き合わせにしてはいい組み合わせですよね(笑)

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―― そんななかで思い出のファミコンソフトというのが……

「ドンキーコング」ですね。あとは「マリオブラザーズ」や「パックマン」とか。それまでゲーセンで100円玉を積み上げて遊んでいたゲームが、家でずーっとタダでできるのは衝撃的かつ画期的なできごとでした。ただ、アーケード版の「ドンキーコング」って全部で4ステージあるのですが、容量の問題で、ファミコン版は2ステージ目の、ベルトコンベアーステージがカットされていたんです。「ええー? なんで3面しかないの!?」とそれはちょっと残念でしたね。

ディスクシステムもバイトでお金を貯めて買ったのですが、「悪魔城ドラキュラ」も思い出深い作品です。あの中世のゴシック調の音楽とグラフィック、今までのファミコンゲームになかった世界観にハマりました。それと、パソコンゲーム時代から気になっていた「スパイvsスパイ」。ファミコンで発売されることを知って、評判が良いことは知っていたから「これはもう発売日にすぐ買わないと絶対に売り切れる!」って、学校から帰ってきて即、家電量販店に走ったのを覚えています。結局並ばず普通に変えたんですけどね……。

「ファミ通」の入社試験で課されたゲームで大失敗するも……

―― その後、ゲーム情報誌『ファミコン通信』(現『週刊ファミ通』、発行:Gzブレイン)で働くようになるわけですが、初めからその仕事に憧れていたのですか?

もともと“何かしらの物を作る人になりたい”という希望はあったんです。何でもよかったんですけど、玩具メーカーなどの製造業とか、建築業とかを考えていました。でも、たくさん遊んできたわりにはゲームを作りたい、というのはあまり考えていなかったですね。

高校を出たあとは専門学校に進み、当時としては珍しい人工知能が学べる学校に通いました。その当時、パソコンやゲームの情報誌をよく読んでいたのですが、たまたま『ファミコン通信』の誌面でアルバイト募集の告知を見つけたんです。ゲームの記事を作るのも“物を作る”という点では一緒だし、原稿を書いて読者を楽しませるのもいいな、と思って応募しました。それが19歳のときです。

アルバイトの面接に行ったら、まずは面接官と面談をしまして、それが終わったら「では、ゲームのテストをします」と。現在はそういうテストはやっていないそうですが、当時は発売されているゲームの中から1本選んでプレーしたんですよ。僕はそこで「グラディウス2」を選びました。当時かなりやり込んでいたし、1機ノーミスで最終面まで行けるくらい腕に自信がありましたから。

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「これは楽勝だわ」って思ってプレイしたのですが、おそらく緊張からか2ステージで全滅しちゃったんですよ! そうしたら担当者が「じゃあ分かりました」って言って、こんどは編集部側が用意した別のシューティングゲームをやったんですけど、それも本当に30秒くらいで全滅しちゃって……。テスト終了後、「合否は電話で連絡します」って言われて落ち込んでたんですけど、翌日に電話がかかってきて、「内沢くん、君が受かったんで明日から来てください」って言われて入社することに。僕以外に2人応募者がいて、どっちも僕よりゲームが上手くて、クリアしてるゲームの数も多かったにもかかわらず、なぜか僕が選ばれたんです。

入社してから「なんで僕を選んだんですか?」ってきいたら、「お前が一番ハキハキしてたから」と(笑)。ゲーム関係ないじゃん!っていうね。やっぱり仕事する上でコミュニケーション能力って大事じゃないですか、「君が一番、受け答えがはっきりしてたし、きちんと話してたし、礼儀も正しかったので、君に決めた」ということだったんです。

―― 「ファミコン通信」にアルバイト入社後はどのようなキャリアを?

編集経験ゼロでの入社だったので、最初は電話番やおつかいがメインでした。当時はまだインターネットがなかった時代で、しかもみんな手書きで原稿を書いていました。基本は、各ゲームメーカーまで写真や資料を取りに行ったりとか、今だったらメールでやり取りできるようなことばかりですね。そんな下積みを1年ちょっと経験させてもらったところで、先輩から「じゃあ内沢くん、原稿書いてみる?」って言われたんです。原稿書くのも写真撮るのも、取材のやり方も、全部先輩に教えてもらいました。

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―― その後、現在も続く名物コーナー「新作ゲーム クロスレビュー」に初登場

クロスレビュアーとしてデビューしたのは1992年ですから、レビューを担当してもう25年……。その当時『ファミコン通信』の副編集長だった、ペンネーム「浜村通信」こと浜村弘一さん(現・株式会社Gzブレイン 代表取締役社長/ファミ通グループ代表)に呼ばれて、「まじめにがんばっているから、新しい仕事としてクロスレビューをやってみないか?」って。当然ものすごく嬉しいわけですよ、「ええ!なんで!僕が?」って言ったら、「お前が一番若いから、最年少レビュアーになるけど、この仕事はいろんなゲームに触れることができるし、絶対勉強になるから」と言われて担当させてもらったんです。

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▲ローリング内沢氏 の初登場回(『ファミコン通信』1992年4月24日号)

思い返すとファミコンが1983年に登場して、その後90年代はいろいろな家庭用ゲーム機が登場して、それと並行して媒体も増えていってという……まあある意味、ゲーム業界がすごく成熟していく過程を間近に見ながら仕事ができてラッキーでした。

ゲームで身に付けたビジネスに応用できるさまざまなスキル

―― 本当にたくさんのゲームに触れてきた内沢さんが、ゲームから得たビジネススキルってありますか?

ゲームって、”発見して→理解して→応用する”、って流れがわりと多いと思うんです。その流れのなかで身に付くさまざまな能力って、大人になると求められる場面が多くなりますが、それがエンターテインメントという形で少年時代から自然と身に付いたのは大きかったかもしれません。

ほかにも「こういう場合はこうしなきゃいけない」という状況把握力判断力、「こうしとけば大丈夫」という危機管理能力先を読む力大局観というのもビジネスに必要な素養ですよね。あと仕事でも無駄を省いたり効率を考えることって重要ですよね。短い手数でいかに効率よく、最大限のものを出せるかっていうことも、ゲームで身に付いたスキルだと思います。

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――ゲーム業界の動向についてはどのように見ていますか?

僕がこれまでたずさわってきた「ゲームを伝える」っていう部分では、ゲーム実況者など、動画で活躍される方もたくさん出てきて、ゲームに関わる仕事の選択肢も増えましたよね。昔『ゲームセンターあらし』って漫画(※1979年から1983年まで『月刊コロコロコミック』にて連載)があったのですが、たしか主人公の石野あらしが、「こんなにゲームが上手くても飯が食えない」みたいなニュアンスのセリフを言ってたんですよ。当時僕はそれを見て、「ああ、そうだよな……」って思って。でも今、ゲームが上手いことでお金を稼げる人たちが出てきたじゃないですか。「eスポーツ」のプロゲーマーもそのひとりですね。

ゲームに関わる仕事や稼ぐための選択肢が増えたことは、ゲームの楽しさをより一般的に広めるためにも良いことだと思っています。昔は、ゲーム好きな芸能人やアイドルに取材を申し込んだりすると、「すみません、あんまりイメージがよくないので、取材をお断りさせてください……」って時代もありましたから。最近はゲームアイドルっていうジャンルもできてるくらいで、時代は変わったなーって思いますね。

かつてファミコンで遊んでいた小学生や中学生が大人になり、パパママ世代になって、世の中のゲームリテラシーとかゲームに対する考え方も好意的に変わってきていると思います。「eスポーツ」は、2022年のアジア競技大会、つまり国際的なスポーツイベントの正式種目に採用されたんですよ。そうなると、もしかしたら2020年東京五輪の次、2024年フランスのパリ大会あたりでは五輪種目になるかもしれない。ゲームの価値と市場がまた一段高いレベルに上がって、いま以上に文化として根付くんじゃないかと思います。ファミコンの登場から40年近くでゲームがそこまで成熟したなんて、ゲームで育ってゲームで仕事をしてきた身としては本当に感慨深いです。

取材・文:深田洋介

1975年生まれ、編集者。2003年に開設した投稿型サイト『思い出のファミコン』は、1600本を超える思い出コラムが寄せられる。2012年には同サイトを元にした書籍『ファミコンの思い出』(ナナロク社)を刊行。

http: //famicom.memorial/

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