井上トシユキのコラム「ネット世論の定義が変わった」

井上トシユキのコラム「ネット世論の定義が変わった」

ネット世論の定義が変わった

ネットで起きることについて、取材を受けるようになってから10年ほどが経ちます。この間に、「ネットで」という問いかけ、あるいは、私が「ネットでは」と答える時のニュアンスにも変化が起きているように思います。2001年から02年頃に、取材の場で「ネットで」と問われる際には、「普段からネットを使っている若い人たちの間で」とか「ネットをすでに使いこなしているエンジニアや研究者、オタクの人たちの間で」といったニュアンスが含まれていました。要は、“普通の人たちとは違う、ちょっと特殊な価値観や意見を持った人たち=アーリーアダプターの反応”について訊(たず)ねられていたわけです。

それが変わりはじめたのが、ケータイから掲示板やブログにアクセスするのが当たり前になったあたり、05年から06年ぐらいのこと。ブログやホリエモン、改革、韓流ブームなどをキーワードとして、レイトカマーの中高年もネットに入り浸るようになった頃です。多くの人がネットを使うようになり、裏情報やマニア情報にとどまらず、政治や経済といった本流のトピックが議論のまな板上にのぼることが増えた。政権交代が喧(かまびす)しくなるや、政治やジャーナリズムといった既存メディアがグリップしていた分野からも、これまではあまりネットに近いと思われていなかった“大物”たちが、当たり前のようにネットに登場するようにさえなった。

誰もが、いつでも、どこでも「思い」をぶつける

こうなると、いつもは会合の店を口コミサイトで調べていただけようなライトユーザーも、ネットから目が離せなくなってきました。だから、既存メディアもネットの動向を追わざるを得なくなったのでしょう。

折も折、モバイルツールさえ持っていれば容易に、脊髄反射的に意見表明ができる『ツイッター』が浸透しはじめ、あわせるかのように従来のケータイよりもネットにアクセスしやすく、またパソコンよりも使いやすいスマートフォンが発売され、瞬く間に普及しだします。早くからいたとか遅く来たとか関係なしに、誰もが普通に、いつでもどこでも政治やジャーナリズム、アカデミズムに対して、ネットを使って“思い”をぶつけられるようになったのです。

そして、この10年で“ネット世論”の定義が変わってしまいました。特殊な、ニッチな、先鋭的な意見のサンプルではなく、新橋でオトーサンの、銀座でオクサマの意見を聞くのと同じように、ごく一般的な反応が集約された場といった見方になってきたのです。

遠慮会釈のない自由な本音

ただ、やはりネット上での意見、ネットの反応をメディアや企業、政治家が気にするのは、一点に尽きると思います。表メディアや調査などでの回答と異なり、ネットには(匿名性を信ずるからか)自由な本音が現れるのです。賛成、反対、罵詈雑言(ばりぞうごん)、過剰な賞賛、犯行予告、どれもが構えない、素の反応です。魂がゲップをしたかのような、書き込んでいる本人も無自覚ではないかと思える本心が見つかることだってあります。

そこで、ここ最近の「ネットでは」という問いかけには、「実際のところ、みんなの本音では」というニュアンスが含まれるようになってきたのです。答える私も、「ネットで見られる本音の部分では」という前提で話します。

さらに、今年は残された最後のマーケット、シルバー世代へのネットやスマートフォンの売り込みが加速するでしょう。いよいよ、1億総ネットユーザーの時代が来る。年金勝ち組と世界的な不況や行政の無為無策で虐げられた世代が、ネット上で同居をはじめるわけです。

気分に任せて「そこにあった灰皿を壁に向けて投げつけるように」犯行予告を書き込んだり、身の回りの出来事を深く考えないままツイートする世代と、守るものがなくなった代わりに一家言残したいと、物言う気満々の世代が対峙する。取り澄まさない本音が、遠慮会釈なしにネット上にあふれ出すことでしょう。

そこで、一つの興味がわいてきます。粗雑な本音、忌憚(きたん)のない本心であふれかえるネットに対し、「リアルはどのように対応するのか?」という部分です。

本音と建前とは同じ“なか”にある

日本人は、長らく本音と建前とを適宜使い分けてきました。狭い島国のなかで「和を以て尊しと為」し、偏向せずに繁栄を求めるためには、表の議論とは別に裏のガス抜きが不可欠という知恵だったではないかと想像します。しかし、元はと言えば、本音も建前も同じ人格の“なか”、同じ集団の“なか”に存在することです。どちらかを否定することは、本来的に無理なのです。

たしかに、ネット以前には取り澄ました建前が幅を利かせていました。それがネットが普及し、構えない本音が過剰なまでに噴出してきた。でもそれは、単に機会があったか無かったかというだけの話、世論にはもともと裏表があったんですというだけのことです。

影響が伝播(でんぱ)するスピードが速くなった、影響力の増幅が速度を増したということはあっても、ネットのチカラによって世論の生成が変質しましたとは、まだ誰も言い切れません。ましてや、ネットにこそ世論があるというのは、まったく本質が見えていないと思います。ネットは大きな声も小さな声も、どちらもそれなりに増幅しますが、大きな声は目につきやすく、また大きな声を自作自演で詐称することも容易くできてしまう。

ネットを活用するためにはリテラシーが欠かせないと言われる所以です。ネットにある本音とリアルに見えている建前とを結ぶ、本当のみんなの気持ち、意見はどこにあるのか。これを分析し、理解することがネットを活用するためのリテラシーと言われるものだと思っています。

ネットとリアルとを串刺しにする回路

つまり、ネットリテラシーの第一歩は、自分のなかでネットとリアルとを繋ぐ回路を知識や教養、社会的な訓練と経験とによって、きちんとつくることです。したがって、1億総ネットユーザーとなった時に、リアルが自らとコインの表裏を構成するネットに対して向き合う、もっとも理想的な姿は、リアル側から上手に横串を刺して、ネットの意見を過不足なく吸い上げる回路をつくるというものです。ネット側からは、ユーザーを取り込むことに成功しつつある一部のニュースサイトや放送サイトが、上手く横串を刺して、すでに回路をつくりはじめています。

次はリアルの番。しかし、共謀罪を再度法案化するとの声も聞かれる行政に、その役が務まるかどうか、全幅の信頼を置くことは難しいと感じています。誰が、どのようにして、リアル側からネットへの回路をつくっていくのか。あるいは、つくろうとするのか。はたまた、遠慮会釈のない本音で溢れかえるネットに、リアルは上手く対応できないままなのか。

1億総ネットユーザー時代の民度を推し量るメルクマールとしても、2012年のネットとリアルとの関係にまつわる最大の関心はそこにあります。

●井上トシユキさんプロフィール
ジャーナリスト。IT、ネットから時事問題まで各種メディアへの寄稿および論評を手がける。企業および学術トップへのインタビュー、書評も多い。『カネと野望のインターネット10年史』(扶桑社新書)ほか著書、共著多数。TBSバトルトークレディオにて、4年間パーソナリティを勤めた。

※この原稿は井上トシユキさんからの寄稿です。

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