古い印刷が伝える温かさと手ざわり〜ほしおさなえ『活版印刷三日月堂』
活版印刷と言われても、最近の若い方にはまったくピンとこない技術であろう(世界三大発明のひとつと言われているのに! うちの息子らはかろうじて活版印刷の知識はあったが、ガリ版を知らなかった)。手間をかけることによって生まれる温かみを好む人は、数は少ないとしても確実に存在する。例えばクラフト・エヴィング商會によってこの3月に刊行された小説『おるもすと』(世田谷文学館)はまさに、ひとつひとつ活字を組むという活版印刷の方法で作られたものだ。
本書においては、現代の世にあって亡き祖父が営んでいた活版印刷所・三日月堂を再び始めたいと考えるようになる弓子が中心人物である。4つの短編が収められた連作短編集で、語り手はそれぞれ異なる。どの話も胸を打つものだが、個人的に最もぐっときたのは第1話の「世界は森」だ。語り手は夫を早くに亡くし、女手ひとつで息子・森太郎を育ててきた運送店営業所所長の市倉ハル。祖父母が亡くなって以来空き家になっていた川越の印刷所に引っ越してきた弓子とハルが顔を合わせるのは久しぶりだった。ふたりが初めて出会ったのは、ハルが大学を卒業して運送店で働き始めた頃、弓子はまだ小学校に上がる前だった。弓子が落としたキーホルダーをハルが拾ってあげたのがきっかけ。それは亡くなった母親が弓子に買ったものだった。「お母さん、死んじゃったから」と淡々と語る弓子に、ハルは何も言えなくなる。そばについていた父親の言葉で弓子が三日月堂の孫だとわかり、それからも年に何度かは顔を合わせる間柄だった。
初めて出会ったとき、三日月堂のレターセットを大切にしていると語るハルに、弓子の父親は「そうか、使ってくれる人がいるんだ。うれしいですねえ」と笑顔を見せた。三日月堂のレターセットは女子たちの憧れの的だった。三日月の上にカラスがとまった神秘的なマークと、便せんと封筒それぞれ1枚ずつに自分の名前が印刷されたもの。インキの色は選べる。高校を卒業したときに両親から送られたそれは、「ハルは春だからね。花の色にしたんだよ」と濃い桜色で刷られていた。最近紙の手紙を書く機会はめっきり減っている。レターセット好きの古い人間である私でさえそうなのだから、メールやLINEに慣れた若者たちが手紙を書く機会など皆無ではないだろうか。…と思っていたら、名前入りの活版印刷レターセットに食いついてきた若者が。運送店と同じ建物に入っている観光案内所のアルバイトで大学院生の大西くんだ。
突然祖父母の家に引っ越してきた弓子は、運送店で働くようになった。同じ建物に勤務する者同士の雑談中に、北海道大学森林科学科への入学が決まってもうすぐ寮生活を始める森太郎へのハルからの卒業祝いを何にしたらいいかという話になる。自分の卒業祝いは三日月堂のレターセットだったと語るハルに、自称文具オタクの大西くんは大興奮。弓子がまだ印刷機は残っていると話すと、他の同僚も巻き込んで三日月堂見学の話がまとまった。初めて見る大量の活字と印刷機に圧倒される面々。印刷機もまだ動くことが確認でき、森太郎へも自分のときと同じようにレターセットを送ろうとハルは考える。
ずっと母ひとり子ひとりで暮らしてきたハルと森太郎はもうすぐ別々に生活するようになる。もう再び一緒に暮らすことはないかもしれないのに、勝手に引っ越しを早めることを決めた森太郎とハルはぎくしゃくしてしまう。それでも、弓子が急いで作業をしてくれたおかげで、出発前に森太郎の名前入りのレターセットができあがった。刷り上がった森太郎の名前を見て、この名前を何度書いたことかと感慨にふけるハル。これだけではない、(特に子どもを持つ親、とりわけ息子を持つ母親にとっては)涙腺が崩壊するようなエピソードばかりだ。
紙などの形として残るものでのコミュニケーションのみが心のこもったものだなどと言うつもりはないが、デジタルでは得られない手ざわりのようなものがあることは間違いないだろう。活版印刷はいま思うと信じられないくらい手間のかかる作業だ。昔はそれほど手をかけなければ本を読むことはできなかったのだ。弓子が印刷所を再開しようと、顧客の心に寄り添って印刷物を作っていこうと思った心の軌跡に、みなさんも触れていただければと思う。
ほしおさなえ氏については、『ヘビイチゴ・サナトリウム』(創元推理文庫)などの著書からミステリー小説家というイメージを持たれる読者も多いのではないだろうか。もちろんミステリー的な興味に満ちた作品もあるが、登場人物たちの心情が細やかに描かれ、単なる推理ものという枠にとどまらない魅力のある作品を書かれる作家だ。詩や児童文学も書かれている。
(松井ゆかり)
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