地方紙の存在意義について

内田樹の研究室

今回は内田樹さんのブログ『内田樹の研究室』からご寄稿いただきました。

地方紙の存在意義について

10月29日朝日新聞の朝刊オピニオン欄に、アメリカの地方新聞の消滅とその影響についての記事が出ていた。
たいへん興味深い内容だった。
アメリカでは経営不振から地方紙がつぎつぎと消滅している。
新聞広告収入はこの5年で半減、休刊は212紙にのぼる。記者も労働条件を切り下げられ、解雇され、20年前は全米で6万人いた新聞記者が現在は4万人。
新聞記者が減ったこと、地方紙がなくなったことで何が起きたか。
地方紙をもたないエリアでは、自分の住んでいる街のできごとについての報道がなくなった。“小さな街の役所や議会、学校や地裁に記者が取材に行かなくなった”。
“取材空白域”が発生したのである。
カリフォルニアの小さな街ベルでは、地元紙が1998年に休刊になり、地元のできごとを報道するメディアがなくなった。
すると、市の行政官は500万円だった年間給与を十数年かけて段階的に12倍の6400万円まで引き上げた。市議会の了承も得、ほかの公務員もお手盛りで給与を増やしていた。でも住民はそのことを知らなかった。十数年間、市議会にも市議選にも新聞記者がひとりも行かなかったからである。
“地方紙記者の初任給は年間400万円ほど。もし住民が総意でその額を調達し、記者をひとり雇っていれば、十何億円もの税金を失うことはなかった”。
もうひとつの影響は地方選挙の報道がなくなったこと。
地元紙が選挙報道をしない地域では、候補者が減り、投票率が低下する。候補者の実績について、政策内容について有権者に情報が与えられないので、選択基準がない。
結果的に現職有利、新人不利の傾向となり、政治システムが停滞する。
都市部でも記者の不足は法廷取材の不備にあらわれている。
法廷取材は公判を傍聴し、裁判資料を請求し精査する記者なしには成立しないが、この手間をかけるだけの人員の余裕が新聞社にはもうない。
もちろんネットはある。けれども、ネットの情報の多くはすでに新聞やテレビが報道したニュースについてのものである。“ネットは、新聞やテレビが報じたニュースを高速ですくって世界に広める力は抜群だが、坑内にもぐることはしない。新聞記者がコツコツと採掘する作業を止めたら、ニュースは埋もれたままで終わってしまう”。
この全米調査は、連邦通信委員会の発令によるもので、ネット化の進行とコミュニティーの報道需要についてリサーチしたものである。
わかったことは“自治体の動きを監視し、住民に伝える仕事は自費ではできない。ニュース供給を絶やさないためには、地元に記者を置いておくことが欠かせない”ということだとインタビュイーのスティーブン・ワルドマン氏は言う。
彼はビジネスモデルとしての民間新聞はもう保たないだろうと見通したうえで、それに代わるものとして住民からの寄付を財源とする「NPOとしての報道専門組織を各地で立ち上げる」ことを提唱している。
「教師や議員、警察官や消防士がどの街にも必要なように、記者も欠かせない」。
アメリカで起きた“地方紙の消滅と自治体の退嬰(たいえい)のあいだのリンケージ”が日本にもそのまま妥当するのかどうか、それはわからない。
アメリカにおける新聞というものの発生はわかりやすい。
開拓者たちはまず最初に街の中心に教会を建て、それから子どもたちのために学校を作り、治安維持のために保安官を選び、巡回裁判所を整備し、防災のための消防隊を組織した。たぶんその次くらい(人口が1000人くらいのオーダーに達したとき)新聞ができた。全国紙から配信される記事と地元記者が足で取材した記事で紙面を構成した。それが広告媒体としての有用性を評価されて、しだいにビッグビジネスになり……という順番でことは運んだはずである。
その“広告媒体としての有用性”が崩れてきた以上、“縮小均衡”をめざすのであれば、もとの“小商い”に戻ればよい、と私は思う(ワルドマンさんもたぶんそう思っている)。
記者ひとり、購読者千人くらいの規模なら、今でもたぶん“小商い”は成り立つはずである。
けれども、いちど“ビッグビジネス”の味をしめたものは、二度と“小商い”に戻ろうとしない。小商いに戻るくらいなら、さらに冒険的な仕掛けをして、いっそ前のめりにつぶれるほうを選ぶ。
それがビジネスマンの“業”なのだからしかたがない。
でも、新聞はもともとは金もうけのために始まった仕事ではない。
そのことを忘れてはいけない。
ワルドマンさんが言うように、発生的には“警察官や消防士”と同じカテゴリーの制度資本だった。
それが“たくさん売れると、どかんともうかる”ということがわかったので、“警察官や消防士”とは違うカテゴリーに移籍してしまったのである。
ならば、“どかんともうからなくなった”以上、時計の針を逆に回して、また“警察官や消防士”と同じカテゴリーに戻る、というのはごく適切な判断であると私は思う。
メディアにきわだった知性や批評性を求める人が多いが、私はそれはおかしいと思う。
警察官や消防士にきわだった身体能力や推理能力や防災能力を求めるのがおかしいのと同じである。
地域の治安や防災はもともと、その地域のフルメンバーであれば“誰でもが負担しなければならなかった、町内の仕事”であった。
誰もが均等に負担すべき仕事であったということは、“誰でもできる仕事”でなければならないということである。
組織のつくりかたが適切であれば、そこにかかわる個人の資質にでこぼこがあっても、治安や防災のような“それなしには共同体が成り立たない社会的装置”はきちんと稼働するのでなければならない。
個人にきわだった身体能力や知性がなければ治安や防災の任に堪えないように作ってあるとすれば、それは制度設計そのものが間違っているのである。
新聞記者も同じである。
それは“誰でも基本的な訓練を受け、それなりの手間さえかければできる仕事”であるべきなのだ。
新聞やテレビはこれからそういう方向にゆっくり“縮んでゆく”ことになると思う。
事業規模が縮むということは、言い換えれば、“その気になれば、誰でも始められるレベルの仕事”になるということである。
新潟県村上市には“村上新聞”という地方紙がある。
そこを訪ねてみた話が村上春樹のエッセイにあった。
三人くらいで回している地方紙である。たいへん好意的に紹介されていた。
私はこういうタイプの新聞が日本列島すみずみにまで数百数千と併存している状態が過渡的にはいちばん“まっとう”な姿ではないのかと思う。

執筆: この記事は内田樹さんのブログ『内田樹の研究室』からご寄稿いただきました。

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