緊迫と興奮のツール・ド・フランス小説〜近藤史恵『スティグマータ』
月影先生は北島マヤを大女優にし、サリヴァン先生はヘレン・ケラーを奇跡の人にし、近藤史恵先生は私をにわかツール・ド・フランスファンにした。本書は『サクリファイス』から続く、自転車レースを題材にしたシリーズの最新作だ。『サクリファイス』(新潮文庫)ではまだまだ新人っぽさが感じられた主人公・白石誓(しらいし・ちかう。ニックネームはチカ)も本書では30歳。長くヨーロッパで活躍してきた彼は、現在はバスク地方のプロチーム・オランジュフランセに所属している。
ある日チカが練習から戻ってみると客人がいた。日本でチームメイトだった伊庭和実だった。伊庭はチカと同い年でずっと日本で活躍してきた選手だが、今年からヨーロッパに拠点を移したばかり。さらに、契約して2〜3か月しか経っていないにもかかわらずチームを移籍すると話す。驚くチカに伊庭ははっきりと宣言した、「グラン・ツールに出たいんだ」と。グラン・ツールとは、ジロ・デ・イタリア、ツール・ド・フランス、ブエルタ・ア・エスパーニャの3つのステージレースのことだ。これらのレースに出場するためには出場資格のあるチームに所属しなければならない。伊庭の移籍先はチーム・ラゾワル。新しいチームなのだが、スポンサーがオマーンの石油会社で資金力は潤沢、さらにはすでにツール・ド・フランスの出場権も獲得済みだ。さらに伊庭はもうひとつ大きなニュースをもたらした。ドミトリー・メネンコが復活すると。メネンコはツール・ド・フランスでも3度の優勝を誇るスター選手だった。しかし5年前、彼はドーピングで告発され、すべての記録の剥奪と2年間のレースへの出場停止という処分を受けている。
若者たちの憧れの的だったメネンコ復活の噂は、オランジュフランセのミーティングでも話題になった。オランジュフランセは有名どころの選手もおらず資金力にも乏しい弱小チームだったけれども、今年はニコラ・ラフォンの移籍という明るい材料が。3年前のツール・ド・フランスで衝撃的なデビューを果たしながら、新人賞を目前にトラブルによってレースを去った悲劇の選手である。チーム内でアシストという役割を背負うチカは、エースであるニコラを勝たせるために戦っていくことになる。しかしそれも、レースに出られればの話だ。ツール・ド・フランスの出場メンバーの発表を落ち着かず待つ中、伊庭を通じてメネンコがチカに会いたいと連絡してくる。ドーピングで地に墜ちたかつてのヒーローとの対面に、憧れと疑心と興奮の入り混じった感情を抱くチカ。そんな彼にメネンコは、”相手は誰だかわからないが脅迫されている。オランジュフランセにもいる、自分に恨みのある人間を見張っていてほしい。引き受けてくれたら、もし来年以降きみと契約するチームがなくなったときに口をきいてやる”と語った…。
私自身『サクリファイス』を読むまでまったく知らなかったのだが、ツール・ド・フランスは完全なチームスポーツだ。そのチームのエースが1位でゴールすることが最終目標(総合優勝を目指すのかステージごとの優勝を狙うのかは、チームによって異なるが)。先制攻撃をしかけて他チームの選手を消耗させたり、エースのペースを維持するためにすぐ近くにつけて走ったりと、エース以外の選手は徹底的にアシストに徹する(ピンとこない方はぜひ、『サクリファイス』から順にシリーズ全巻お読みになっていただきたい)。何日も続くレース期間中には、エース以外の選手がトップでゴールすることもあるのだが、それはおまけのようなもの。内心の忸怩たる思いを完全に払拭することは難しくても、よいアシストができればそれが来季以降の契約更新につながる。エースが光、それ以外は影だ。
いったい誰が脅迫者なのか、そもそもなぜメネンコはレースの場に戻ってきたのか、そしてニコラが見た亡き親友・ドニの亡霊とは? といったミステリー的な興味にも満ちた本書だが、やはり圧巻はレースの緊迫感と選手たちの心情についての描写。物語はずっとチカの一人称で語られるが、不器用でナイーブなのに時折みせるプライドや気の強さがたまらない(と言いつつ、伊庭ファンだが。次作ではもっと出番増を希望)。日本ではまだそれほどなじみのないスポーツであるが、自転車レースの大ファンでもある著者の筆によって競技を間近で見ているような臨場感も味わえる。
今年のツール・ド・フランスはもう終わってしまったけれど、今からでも総集編などは見られる予定。まずは録画予約、次にシリーズ全巻読破、そして録画視聴という流れが望ましいでしょう。にわかファン上等! ありがとう、近藤先生!
(松井ゆかり)
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