『千日の瑠璃』初日——私は風だ。(丸山健二小説連載)

access_time create folderエンタメ
『千日の瑠璃』初日

私は風だ。

うたかた湖の無限の湧水から生まれ、穏健な思想と恒常心を持った、名もない風だ。私はきょうもまた日がな一日、さながらこの世のようにさほどの意味もなく、岸に沿ってひたすらぐるぐると回るつもりだった。ところが、太陽がぐっと傾いた頃、人間をひとり、長く生きても世情に通達しているとは言い難い男を、いとも簡単に殺してしまった。重ね着をし、毛糸の胴巻には懐炉まで忍ばせていたのだが、その釣り人の使い古された心臓は、私の易々たるひと吹きでぴたりと停止した。老人は声もあげずに頽れ、前にのめり、頭を清水にどっぷりと漬けたまま、異存なさそうにあっさりと息絶えた。腰骨のあたりに、青々とした発光色のイ卜トンボがとまって羽を畳んだ。

その代りといっては何だが、しばらくして私は、別の命を救った。もし私の情がこまやかではなく、充分注意して動いてやらなかったら、ちっぽけな野鳥は間違いなく冷水の上に落下していただろう。飢えと寒さですっかり衰弱していた哀れな幼鳥は、星の面のように湾曲した死者の背中にしがみついて、ぐったりとしていた。活でも入れてやろうと、私はびゅっと吹きつけた。するとそいつは「寒い」と鳴き、最後の力を振り絞って、往生したばかりの人間の生暖かい懐へと潜りこんだ。

天に近い山々の紅葉が燃えに燃える十月一日の土曜日、静か過ぎる黄昏時のことだった。
(10・1・土)

丸山健二×ガジェット通信

  1. HOME
  2. エンタメ
  3. 『千日の瑠璃』初日——私は風だ。(丸山健二小説連載)
access_time create folderエンタメ
  • ガジェット通信編集部への情報提供はこちら
  • 記事内の筆者見解は明示のない限りガジェット通信を代表するものではありません。