ゲームプログラマが語る 3Dテレビとゲームの微妙な関係 その打開策

留まるところを知らないさまざまな映像技術の進歩には、本当に目を見張るばかりだ。わずか50年ほどの時をさかのぼってみればそこには、当時の一般会社員年収に匹敵するような価格の白黒テレビが街頭を彩り、昭和中期に生きる人々の足を巧みに止めていた。会社帰りに街角テレビにてボクシングの試合を眺め、天井に扇風機の付いた通勤電車内では大きな新聞を広げる――薄型テレビやスマートフォンのない時代にもコンテンツというものは常に存在し、人々を魅了して止まないものだが、人々もまた次々に生まれる新しいコンテンツを貪欲に求め続け生きてきた。飽くことなき技術への渇望は矢のように時を貫き、その光陰は現代、大いなる技術革新を我々にもたらしてくれることとなったわけだ。

8色カラーのドットで組み上げられた、画面を横へ横へと進んでゆくアクションゲームの中の小さなヒーローも、今では現実世界のような風景を所狭しと躍動的に飛び回っている。現代携帯電話端末が装備する手のひらサイズ画面の中にすら、一昔前では考えられない映像美がさも当たり前の様に流れる時代である。

飽くなき進化を続ける映像技術であるが、昨今ではこの流れに“3D立体”技術のブームが押し寄せてきている。映画『アバター』や『アリス・イン・ワンダーランド 』等が紡ぎ出す臨場感に満ちた3D立体上映等において、異世界であるはずのその舞台が、激しい説得力を持って我々を迎えてくれたことも記憶に新しい。
3D立体映像ブームの波は映画コンテンツだけに留まらず、『ニンテンドー3DS』や各種3D立体対応テレビの発売へと続き、その知名度をより深いものへ育てている。

さて、“3D立体テレビ”のように表現されることの多い技術だが、そもそも3D立体映像とは一体どういった物なのであろうか。単に3Dというならば、普通のゲームや映画等においても良く見かけるコンテンツであるが、ここで扱う3D立体技術とは、特殊な眼鏡を装着するかもしくは裸眼のまま現実世界に似た立体感を与えてくれる装置の総称であり、“ステレオ3D”と呼ばれる技術だ。これらの装置は左右の目に対し微妙に異なる映像を映すことで、人間の脳に、それが現実空間であるかのように錯覚させている。眼鏡式や裸眼式など色々な装置が登場しているが、どの技術においても行われていることは原則として同じである。

この、“左右の目へ微妙に異なる映像を”という点が本記事の着眼点だ。この小さな事実が、3D立体映画、及び3D立体ゲームにおける垣根となり、両者のあり方を大きく隔てている。

ゲームと映画、両者の違い

映画等における映像とは言ってみれば、写真でおこなうパラパラ漫画であると表現できよう。監督やスタッフ等、制作陣の手により練られたストーリーがあり、しかるべき手段により完成されたハイクォリティ画像集を順番通りに再生するという仕組みが、すなわち映画である

ゲームの映像と映画を比べた際に、両者におけるあり方の決定的な違いはただ一つ。“視聴者がカメラを動かせるかどうか”ということだ。この一点の事実があるだけで、その映像制作方法は根本から異なる形とならざるを得ない。映画の監督達がストーリーに沿って撮りためる写真のパラパラ漫画手法は、ゲーム本編を支える仕組みとしての採用が難しい。ユーザーが、ゲーム内におけるシーンのどの場所へ移動したいのかが予測できないためである。予測できない場所の写真をあらかじめ撮影することはできないのだ。

では、“ゲーム機”はその予測できない場所をどのように写真にしているのだろう。この一面こそが、ゲーム機に課せられた、終わることのない高性能化の波を生み出す原因であると断言しても良いが、ゲーム機にて美麗な映像を生成するためにはまず、再生するゲームソフトへクリエイターの手によりデータ化されたシーンをあらかじめ仕込んでおくこととなる。そのデータとは、写真のような風景画とは異なるものだ。既に現像された写真は、それがどれほど美麗で雄大な滝の写真であろうとも、滝の中からのアングルへ変更することはできない。ゲームに仕込まれているデータは、この滝の“形”や“質感”といった種類の情報に集約されており、この情報を元に、極度に高性能化した計算能力を使い好きな位置から見た滝の画像を計算し生成し続けている。
それが、すなわちゲーム機だ

しかしながら、この画像生成処理とは相当に負荷の高いものである。いつの時代のゲームを手に取ってみたとしても、程度の差こそあれ基本的にはどのソフトも皆、対象の機種における最大限に美しい映像をユーザーに魅せるため、工夫を凝らしゲーム機の性能を限界まで引き出そうという努力が施されており、そうしたストイックな挑戦がゲーム機の限界性能に迫る美しい映像を作り出している。

ところが昨今。ここへ3D立体映像がやってきた。

ゲームにおける3D立体映像

既出の通り、3D立体映像とは“左右の目へ微妙に異なる映像”を映すことで実現されているが、微妙であるとはいえ、異なることには変わりのない別々の映像である。
映画ならばじっくりと時間を掛けて撮影しているであろう一枚一枚のパラパラ写真を、ゲーム機は毎秒リアルタイムに、限界目前の計算能力を用い算出し産み出している。ギリギリのところで映像を連続させている、言わば処理能力の自転車操業だ。ここへ、“同時に別の映像を”というリクエストがかかればこれは、体力を限界まで使い走りきったフルマラソンを、半分の時間で走れと言われているに等しい。
3D立体映像を見越した処理能力配分とは、言ってみれば“分身の術”を使い一人の能力を分散させるようなものであり、ポテンシャルを一点に集中させる非3D立体映像が醸し出す本来のパフォーマンスからは劣化していく形とならざるを得ない。

こうした理由から、既に完成しているゲーム作品を3D立体対応させるという案件は処理余力の問題で見送る形となりやすく、また新規案件の場合においても、雑誌媒体など立体視で表現することのできない大部分のPR分野におて不利になりやすいことから、やはり導入に躊躇(ちゅうちょ)するケースが目立っていたのがこれまでだ。

展望

3Dテレビそのものにおける普及率にコンテンツ業界側が魅力を感じ切れていないという安易な二元論は、コンテンツがないからテレビも売れないという反対の要素も持ち合わせている。現代における3D立体娯楽の提供とは、筆者が属するコンテンツ業界、そしてテレビ等を作るハードウェア業界等との共同作業であるが、現状の貢献度はハードウェア業界側が一歩リードしていると言えるだろう。眼鏡が重い、酔いやすい、自由な位置で視聴ができない等、こうした装置側の不満点も近い将来必ず解消されてくるはずだ。

反面、我々コンテンツ業界側の現状は魅力的なアイディアを潤沢に提案できているとは言い難く、“映画やゲームが3Dになりました”等といった程度のコンテンツ作りから、業界をあげての脱却が急がれている。業界内部においても処理負荷を抑えながら立体映像を生成する工夫や、単に立体的であるという次元を超えた新しい遊びのアイディアが耳に入るようになってきた。技術がどこまで進んだとしても、それを生かすコンテンツがなければ人々に浸透することはなく、その呼び水となるものは常にアイディアだ。

コンテンツ側、ハードウェア側双方の人間が本格的に始動を始めた昨今、新しい遊びの波が今後も続々と連鎖しユーザーが体験できることになる日は遠くはなく、その片鱗(へんりん)も垣間見られるようになってきた。

筆者も、身を引きめて取り組んでいきたいと、決意を新たにした次第である。
これからの新しい3D立体コンテンツに、注目していくのも面白いだろう。

画像:Panasonic 3Dテレビ VT3シリーズ(プラズマ)『ビエラ』公式サイトより
http://panasonic.jp/viera/products/vt3/p_3d.html

※この記事はガジェ通ウェブライターの「Team Dyquem (ディケム)」が執筆しました。あなたもウェブライターになって一緒に執筆しませんか?
本業はPS3やXBox360等の次世代機ゲームプログラマと文筆業に勤しみながら、趣味のiPhoneアプリ作成に心酔しているアラフォー、TeamDyquemで御座います。Teamとは言っても独り開発。カタッ苦しい事は抜きの心和むアプリを提供させて頂きながら、SFと技術情報を日々綴ります。

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