CGO展、仲山ひふみ氏の新たなビデオアートの想像力

今月9日から13日まで、多摩美術大学絵画東棟1階にて「コンシューマー・ジェネレイテッド・オルギア(CGO)」展が開催された。キュレーターは平成3年生まれ、知る人ぞ知る新進気鋭の作家・仲山ひふみ氏だ。

仲山氏は高校生の頃より東浩紀氏による批評家養成企画「ゼロアカ道場」などで注目を集め、現在は黒瀬陽平氏、梅沢和木氏、藤城嘘氏による「カオス*ラウンジ」の活動にも参加している。仲山氏の今回のCGO展は、氏がカオス*ラウンジで吸収してきたものの結晶とも言える展示だった。

この展示は、ニコニコ動画を中心に人気を博しているMAD動画を、仲山氏自身のパソコンを用い、氏のリストを通して鑑賞する、という半ば奇抜なコンセプトのもと行われた。MADとは、話題のゲームやアニメ、様々な映像素材を駆使して独自に音楽や構成などを編集した映像作品。中には完全にオリジナルなゲーム風映像などもあり、パロディやネタの要素も強ければ実作としての迫力もある、多種多様な二次創作的コンテンツなのだ。

仲山氏はこの展示にあたってブログを開設し、MADを展示することの意図や注釈を詳細に記している。そこでは、一見すると長文で難解な面もあるものの極めて精密な理論が展開されており、私はこのブログを通読することによって仲山氏の非凡さを改めて感受したといっても過言ではない。それらはこの画期的な試みへの精妙な伏線とも言えた。

しかし実際のCGO展は、そうした氏のブログを予習してきた身にとっては、ある意味、想像だにしない空間だった。まずは鉄パイプで堅固に造られた四方形の空間。その壁に位置する側面は不規則にコードが絡められ、内部は容易に可視化できる。しかし問題は、中央のパソコンが配置されているスペースへと辿り着くまでの地面。そこには、四方に立てかけられた鏡のガラス片が無数に散りばめられ、その上をジャリジャリと踏みしめなければ中央には到達できないのだ。

この鉄パイプで囲われ、ガラス片が散乱している一つの孤立した空間。外部からは明確に可視化されているようで、内部には堅牢な独立した空間を有している。来場者を、開かれた空間なのか閉じられた空間なのか、どっち付かずの宙ぶらりんな平衡感覚へと陥らせる不思議な機能を果たしていた。

唐突だが、私はこの展示がもたらすそうした浮遊感に、ネット世代の原風景とも言い得る郷愁のようなものを感じた。この一見可視的で開放感がありながら、殺伐としてディスプレイと自分とそれを投影する鏡だけの内部、そして床を覆うガラス片の散乱した風景に、強い既視感に似たものを感じて仕方がなかったのだ。

ガラス片の散乱という光景は、決して自暴自棄でかつ自傷行為に等しい内面の錯乱を表しているわけではない。それはカオスの表出としての風景では決してなく、すでにそこにあった、もとより世界に内在しながら統合を失っていた原風景そのもののように思えた。それは、インターネットという環境を前にして育った人々、ネットユーザーの心象風景に通底するものがなかっただろうか。

このように展示そのものの鑑賞にも興味が尽きなかったのだが、とはいえやはりメインはMADの鑑賞である。ニコニコ動画に投稿されたMAD 動画を展示に使用することには、すでに著作権の問題などで様々な議論がなされている。しかしキュレーターである仲山氏の意図は一貫して、MAD動画が「作品」としてのアクチュアルな批評性を有していることへの確信と信頼であった。

「もしこの展示が批判にさらされるようなことがあるとすれば、そのとき、ある種の表現が作品として扱われるというその事実自体が、その表現の深いレベルでの主張とは切り離されて誰かの権利を侵害するものとして告発されていることになる」。

従来のビデオアートは保守的な側面があった、とも仲山氏は主張する。展示形態や鑑賞形態もさることながら、ニコニコ動画の作品群などが正当な「芸術作品」として扱われて来なかった現状を、この展示を通して少しでも打破しようとする試みがこのCGO展でもあったのだ。著作権の問題は現在でもなお議論を呼んでいるが、仲山氏の意図するところは、あくまでもMADというコンテンツが持ち得る批評性の強度への信頼にあったと思う(この議論の詳細は氏のブログ を参照していただきたい)。

さて実際、パソコンの前に立ってMAD動画を観るのは、結構な勇気のいる行為だった。音響はスピーカーへとつながれ、ほとんど爆音に近い形で衆人環視の中 MADを鑑賞しなければならない。パソコン内にはテキストの案内があり、それに沿ってMADを観ていくのだが、しかしそれだけではなく、その他自分の観たい動画や好きなサイトにも自由にアクセスしていい、という。

迫力に満ちたMADを鑑賞した後、上述の設定に便乗して私も自分の観たい動画を好き勝手再生することにした。ももいろクローバーZ、私立恵比寿中学からバロック音楽やマーラーの交響曲、果ては戦前のSP録音の軍歌や玉音放送まで流してみたが、そうこうしているうちに次第に不思議と開放感が高じて、当初の羞恥心とは相反して熱中してしまっていた。

人気のMAD動画から映画の一場面、オーケストラのライブ映像まで、そのすべてが優劣なく「作品」として展示の中に組み込まれていく。当然、何が「芸術的」な映像で何が「非芸術的」か、などとは到底言えない。すべてが平等にスクリーンの中で展開され、各々の好みによって幾度にもジャンルを横断的に、越境的に楽しむことが出来る。メインのMAD動画たちは、そうした機能を最初から自身で一手に体現する存在だったのだ。

私は「涼宮ハルヒの憂鬱」の最終回でBGMに使われたグスタフ・マーラーの交響曲第8番「千人の交響曲」を大音量で流してみた。その壮大な音響に身を委ねながら、改めてこの展示を見渡してみる。その時、私はこの展示や視聴空間自体が、MADの想像力の世界をオマージュしていることに気がついた。マーラーの交響曲はその音楽が持ち得た固有性を失い、ただ純粋に音響だけがMADの世界観に溶け込んでいったのだ。

仲山氏がMAD作者に対して多大な尊敬を込めているのは言うまでもない。しかしこの展示が指し示した可能性は、もしかしたら、もはや「作品」が、仲山氏の手からも、MAD作者の手からも離れて、自律的に新たな想像力を形成していくことではなかっただろうか。

仲山 一二三(なかやま ひふみ)

1991年生まれ。現在、多摩美術大学在学。高校在学時の2008年に批評家・東浩紀氏主催の「ゼロアカ道場」へ参加し、同イベントの同人誌「ケフィア」に寄稿する。以降、カオス*ラウンジ、tomadらとの「音楽批評ust」、ニコニコ生放送での「モストポダン」などへ参加、その活動に注目が集まっている。

ブログ:仲山一二三の日記 http://d.hatena.ne.jp/sensualempire/ [リンク]

twitter:@sensualempire https://twitter.com/#!/sensualempire [リンク]

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