あなたには人生を賭けられる「楽しみ」がありますか?
『空に牡丹』(大島真寿美/著、小学館/刊)は、著者の大島氏が、「次の連載でどうしても書きたい小説があるの」と、編集者に電話をして生まれた1冊だ。
それは、花火という刹那に全てをかけた男の話だった。
時は明治。寺小屋は学校に、着物から洋装に、時代が大きく変わっていく時期。主人公の静助は、丹賀宇多村の大地主だった可津倉家の次男坊として生まれた。父の庄左衛門が年齢を取ってから生まれたせいもあって、甘やかされて育った子どもだった。
ある日、母親の粂と出掛けた両国、隅田川の川開きでの花火大会を見た静助は、花火に魅了される。そして、静助は花火職人だった杢さんを口説き落とし、花火作りに夢中になっていくのだった。
「大きな花火を空に。
この世の虚しさを美しさに変えて、花火は空に消えていく。
だから花火が好きなのだ。」
静助は、そんな思いで花火作りに没頭していく。
しかし、花火には莫大な資金が必要だった。より発色のよいものを。より大きいものを。より形のきれいなものを。より明るいものを。花火というは、拵えるのに手間も暇もかかるので、新しいものに挑みたければそれ相応の人手がいる。
花火を製作していた可津倉流では、花火を拵え、打ち上げに行くことによって、ある程度の収入は得ていたが、無頓着に人を増やしていっては、賄いきれなくなる。その穴埋めを静助がしていたのだ。
静助は、可津倉家の資産だった田畑や土地を売り、花火道楽に資金をつぎ込んでいった。博打や女で身を持ち崩すという話は昔からよく聞くが、花火で身を持ち崩す者の話など聞いたことはないし、村人にしたら、迷惑どころかありがたい道楽だから、あの人は変わった人だがあれはあれでいい、ということになる。丹賀宇多村では、夏だけでなく、春だろうと秋だろうと、冬でも花火が上がった。村人たちは、やれ柳だ、やれ牡丹だ菊だと、適当なことを言っては気軽に楽しみ、花火の面白さを存分に味わえ、親しみも湧いていた。
静助の花火道楽で、裕福だった可津倉家は没落していくことになるのだが、そのことを歎くものはあっても、嘲笑う者はいなかった。静助の上げた花火をともに眺めていたから、どことなく、没落への責任の一端を感じてしまったのか。それとも、いくらか共犯めいた気持にもなっていたのかもしれない。
道楽で一財産失ったものの、可津倉家は、村の誰からも蔑まれることもなく、それどころか、困った時には手を差し延べてくれる者が後を絶たなかった。
静助の子孫たちは言う。
あの人がいなかったらわたしら子孫も、もうちっと楽ができたかもしれないのにねえ。
だけど静助さんだもん。
花火だもん。
仕方ないよ、あの人、花火道楽だもん。
呆れた調子を含みながらも、決して彼を突き放せない。それどころか、次から次へと、静助の話を始めてしまう。静助はそんな憎めない存在だったのだ。
もし、家族や親戚に静助がいたら……迷惑な奴だ、と思いつつも憎めない存在になっているのではないだろうか。花火をとことん愛し、いつの間にか人々を楽しませている彼の姿は、やりたいことをやっているようで、むしろ羨ましく見えるかもしれない。
明治時代、花火に魅せられて生きた男の一生を追いかけた物語は、あなたの心の中に大きな花火を打ち上げてくれるはずだ。
(新刊JP編集部)
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