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極端な「自己責任論」の台頭、社会崩壊を招く?

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イスラム国が邦人2人を拘束。吹き荒れる「自己責任論」

いわゆる「イスラム国」により邦人2人が拘束され、日本政府が莫大な身代金を要求されていることを受けて、世間では「自己責任論」が吹き荒れています。

「自己責任論」とは、結果を予測し得る状態において、自らの自由意思で選択・決定して行動した結果については、自らが責任を負うというものです。今回の事態に当てはめると、「危険な場所であることを承知で自らそこに行ったのだから、自業自得であり、日本政府が身代金を支払ういわれはない」ということになるのでしょう。このような「自己責任論」は、2004年4月にイラクで邦人5人(市民活動家やジャーナリスト)が武装グループに拘束された際にも同じように噴出していました。

「自己責任論」を突き進めると、社会が成り立たなくなる

この「自己責任論」は、裁判上では「危険への接近の法理」という形で顕れてきます。例えば、米軍基地の騒音・振動を巡っては、周辺住民からは、米軍機の飛行差止めや国家賠償を求める訴訟が相次いでいるのですが、被告となっている国側が「そのような騒音の存在についての認識を有しながら、それによる被害を容認して居住を開始したのであれば、国の責任は減じられる」と反論しており、その理屈のことを「危険への接近の法理」といいます。

しかしながら、このような「自己責任論」を突き進めて、あらゆる場面で適用してしまうと、社会保障などの相互扶助制度自体が不要ということにもなりかねず、国家社会、ひいては国際社会というものは成り立ち得なくなります。ある行動を「自らの自由意思で選択した」とはいっても、選択肢そのものが有限であり、しかも有限であることが行為者とは無関係な人為的・社会的要因に基づくものであったとすれば「100%の自己責任」とは言い難いはずです。これを「自己責任である」として社会が一切の助力をしないということになると、多少なりとも社会に責任があるのにもかかわらず、社会は全く責任を取らないことになってしまいます。

社会が無責任になれば、逆に社会に対する責任を放棄しかねない

社会は、一人一人の人間が構成員となって、相互に助け合いながら集団となり、その集団がさらに大きな集団となって形づくられている状態です。社会が無責任になってしまうと、これを構成する一人一人の人間が逆に社会に対して責任を持つことを放棄しかねません。それでは、社会そのものが崩壊してしまいます。

「自己責任論」それ自体は、自覚ある行動を促すものとして完全に否定することはできないと思いますが、極端なまでに「自己責任論」が台頭するようでは、やがては悲しい結果を招いてしまう気がします。

(田沢 剛/弁護士)

カテゴリー : 政治・経済・社会 タグ :
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