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揺れるネット社会の規範――求められるIT教育は?(大賀真吉)

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『IT批評 2号 特集:ソーシャルメディアの銀河系』(2011年5月刊行)より大賀真吉さんの「揺れるネット社会の規範─求められるIT教育は?」を転載。

揺れるネット社会の規範─求められるIT教育は?

インターネットを舞台にした犯罪をこれまでの道徳観のみで判断するのは難しい。
求められるのは規制か規範か?

大学入試カンニング事件

 この2月、季節の風物詩でもある大学入試で大きな事件が報じられた。京都大学で起きたカンニング事件である。果たしてこれほどまでに社会を揺るがす問題なのか大きな疑問は残るが、紛れもない不正行為が日本有数の大学で行われただけに、世論が大きな関心を持つのは当然だっただろう。

 もっとも、これほどの話題となったのは有名大学のスキャンダルという側面が多分にある。その一方で、中国や韓国ではすでに社会問題化している同様の事件から抱かれていた、日本でもいつ起きてもおかしくない、もしかするとすでに行われているかもしれない、との懸念が実証されたことも大きい。

 それは、事件直後のマスコミ報道からも窺い知れる。さまざまな識者やいわゆるコメンテーターが、それぞれに推測する手法を披露した。それほどまでにITとネットを使った多くのカンニング方法が思いつくのだから、当事者の受験生が不正に手を染めるのは時間の問題だっただろう。

 さらに言えば、彼ら受験生はいわゆるデジタルネイティブ、モバイルネイティブの世代である。結果的に、識者たちが指摘していた完全犯罪のようなものでなく、簡単に「足がつき」犯人捜しも終わったが、携帯電話から直接、問題を打ち込むのは古典的な世代には「ありえない」テクニックだった。それだけに、今も「足がつかない」巧妙な手法が繰り広げられていてもおかしくないし、また世代間に横たわるギャップを明らかにしたと言えるだろう。

 その意味で象徴的なのは、大学側の対応である。モバイルを使う不正は、先に述べたように誰でも簡単に思いつき、バレない手法も考えられる。実際、入試というパブリックなステージでなく学内の定期試験であれば日常的に行われており、そうした不正行為を考えなしに自分のブログで公開して炎上する騒ぎは、たびたびネットで見かけられる。

 学生側の実態はそうであるにもかかわらず、大学当局は受験者のモラルを当てにして、具体的な防止策を取ってこなかった。事件後には、携帯電話の持ち込み禁止などへの言及も報道で見受けられたが、病院などには、携帯の電波を遮断する機器が設けられている。機器の値段が高いと言うのなら、社会問題化させて全大学で文科省からでも予算を取ってくればよい。できる、できないではなく、それはコストの問題だ。確かにハード的な対策は3月中旬の後期試験に間に合うものではなかったが、いくらなんでもモラルが破られた状況で受験生の自己申告に頼る対策を言うのは、恥の上塗りだろう。

世代間に横たわるITリテラシー・ギャップ

 こうした観点から見ると、この事件は今のITが抱える2つの大きな課題を提示した象徴的な事件だったと指摘できる。

 一つは、若いデジタルネイティブ世代と旧世代の間に横たわる、感性の隔絶。古典的世代は海外や現役学生の「モバイル・カンニング」をたとえ聞いていても、それを実感として捉えていなかった。空想の世界の話とまでは言わずとも、具体的な対策を立てるほど現実味のある話ではないと考えていたことは、世代間に大きなギャップがあることを示している。

 そして、もう一つはカンニングという不正行為を行うにあたって、「足がつきやすい」安易な手段を選ぶような、若い世代の犯罪意識の軽さである。ネット上の犯罪は実感がないため敷居が低いなどと言われるが、これはそういう問題ではない。今回の件にしても、不法行為ということは十分に理解している。むしろ問題は、犯罪の抑止効果を生む「捕まる」という実感、切迫感の欠如にあるのではないだろうか。

ネット犯罪に対するモラル

 まず後者について、いわゆる刑罰の意味には目的刑論でいうところの一般予防論がある。「社会的に不当な行為をしたら罰がある。ゆえに、行わないように」との趣旨のものだ。これを実際に社会全体に敷衍しようとするなら、刑罰の周知と犯罪の規定が不可欠だが、ことITが絡んだ犯罪に対して徹底されているだろうか。

 もちろん先に触れたように、このケースでも不正な行為は認識されていたし、刑罰でなく学内で処理されるべきとの論や、犯罪を構成し得るのかとの指摘はあるものの、捜査当局が既定の法に照らして条件構成を試み得ることはやむをえないことであり、一般予防の条件を満たしているように見える。しかし、昨今の事件を見ると「刑罰の周知」の周縁にある「不当行為をしたら捕まる」ことの周知があまりに不十分だ。

 カンニング事件で言えば、携帯電話からネットにアクセスすれば、各端末に割り振られた固有IDによってアクセス主が一瞬で判明するのは、IT業界の人間であれば常識。それも専門的な情報というわけではなく、単にアクセス解析や自動ログインなどにしか使われないから一般人が知らないだけであり、ネットで検索をかければいくらでも詳細なことがわかる。ネットの匿名性などと言われるが、それは表層的なものに過ぎず、「飛ばし携帯」でもなければモバイルアクセスはほとんど実名というのが実態だ。

 にもかかわらず、このケースでは母親名義で自分が使っている携帯電話からネットにアクセスされた。不正行為をする割にはあまりに軽率としか言えない。

 同種の軽率さは2月に発覚した大相撲の八百長問題にもある。こちらは刑法上、罪に問われるものではないが、それ以上に社会的、経済的に不利益を被ることは当事者たちも十分にわかっていただろう。それならば八百長の証拠となるメモや手紙を残すなど愚の骨頂だ。不当行為を勧めるわけではないが、謀は密をもって行うべきなのである。

 しかし、八百長問題では携帯電話内のメールデータが復旧され、八百長のやりとりが白日の下にさらされた。当事者たちばかりでなく、メールの宛先を含めて泥縄の騒ぎになっている。本書の読者のようにITに詳しくなくとも、ハードディスクはランダムな上書き、もしくは物理的な破壊によらなければ、情報漏洩を防げないことは一定の周知が得られていると思う。それは携帯電話の内部メモリであっても変わらないのは、十分に推測できる範囲だ。また、少なくとも不法、不当行為を行う者なら、その程度のリスク管理はするべきだ。それをお粗末にも、端末の表層的なメールを削除するだけで十分と考えていたことが、確固たる証拠につながった。

稚拙なネット犯罪への予防策

 ネット犯罪を行うならば十分に準備しろと言うわけではないが、こうしたあまりに不用意な事例がこのところ続いている。とくにカンニング事件に関しては、携帯電話でアクセスしたら捕まると知っていればカンニングを行わなかった可能性もあるだけに、世間一般のITに関する知識の欠如が招いた不幸なのではないかと、ふと思ってしまう。

 このようなことを言うと、捜査の内幕をばらすのは手口の巧妙化を招くと否定されがちだが、それは少し論をすり替えている。

 残念ながら所詮、捜査当局のIT知識は最先端のそれに及ぶところではない。昨年10月に発覚した国際テロ捜査情報流出事件は捜査当局の面子を潰しただけに、おそらく全力を挙げて捜査活動を行っているだろうが、犯人の巧妙な手口により、今のところ解決の糸口が見つけられていない。

 結局のところ、プロによる犯罪と検挙が容易な犯罪とでは質がまったく異なる。高度な犯罪では捜査手順も一つのインテリジェンスだろうが、検挙が容易な一般的な事件では国民に罪を犯させないこと、抑止効果がもっとも重要な意味を持つ。それだけに一定の情報を公開して、積極的に「捕まる」ことを周知徹底させる社会教育こそが求められているのではないだろうか。

「情報モラル教育」

 また、犯罪抑止により大きな役割を果たすのは、将来の社会を担う青少年への教育である。とくにIT時代における新たな倫理観、道徳の構築は喫緊の課題であり、すでに平成18・19年度の文部科学省委託事業として「情報モラル教育」という一つのひな形が形づくられている。これは小学生から高校生にわたって、ネットをはじめとするIT社会のさまざまな場面におけるモラル、判断を教育するための、教職者向けケーススタディ集と言えるものだ。そして、これをベースに情報モラル教育の教材や各地での取り組みが行われている。

 ただ、こうした取り組みには一定の評価があるものの、教育現場での現実を言えば、ITについてはモラル教育よりもツールとして教える機会のほうが多くなりがちだ。レポートや自由研究などにしてもPCを使って調べたり、データで提出したりと、ITを日常的に使う方向に教育界自体がシフトしている。実社会での利用を考えれば、それもまた正しい選択だとは思うが、それゆえにITを巧みに扱いつつも、それの正しい使い方というひと回り広い視点が欠けているのではないだろうか。

 似た話に思えるのが、1960年代に広まった「刃物をもたない」運動だ。当時、鉛筆削りをはじめ、野山で遊ぶ道具、自由闊達な工作などには折りたたみ式刃物「肥後守」が重宝されていた。しかし、青少年の刃物による殺傷事件が続いたことで、子どもたちの刃物の所有を制限するこの運動が進められ、刃物は子どもたちと切り離されることとなった。

 この運動によって青少年が命の尊さを再確認したのは確かなことだ。しかしその一方で、子どもたちが正しく刃物を扱えなくなったことも間違いなく、また青少年から刃物を取り上げたために、顕示欲を満たすための刃物信仰とも言える過度の依存も生んだ。運動に成果があったとはいえ、今も秋葉原殺傷事件をはじめ青少年の刃物による事件は続いている。

 現在、ITでもまた毎日のように、出会いサイトや無料ゲームサイトなど新しいネットのビジネスモデルにおける青少年の被害や保護が報じられている。これらのビジネスは往々にして悪役に位置づけられがちだが、無料や試供サービスからユーザーを引き込んで顧客に育て上げるのは、ある意味マーケティングの常道だ。出会いサイトにしても、いわゆる18禁に類するであろう分野なだけで、ビジネスとしての不当性はほとんどない。つまり、単なる大人相手のビジネスに過ぎない。ただ、Face to Face でないネットのために、青少年が紛れ込み問題となっているだけだ。

 そういう意味ではフィルタリングなど一定の規制は必要だと思うが、青少年保護を掲げて過剰な規制強化を繰り返してもいたちごっこで、問題の本質は解決できない。青少年からITを敬して遠ざけるのではなく、取り組むべきは旧来、「知らない人にはついていかない」などと子どもたちに教えていたのと同様に、ITでも「大人の常識」をきちんと子どもたちに伝え、危険性と利便性を教えることではないだろうか。

 テクニックとしてITの使い方を教えるのは、肥後守を使った鉛筆の削り方を教えているに過ぎず、刃物の危険性と大切さを教える教育こそ、ITが刃物の覆轍を踏まないためにも、早急に求められている。

大人にもわからないITの常識、危険性

 ただ、正論は先に述べた通りなのだが、実はなかなかこれがうまくいかない。これまでの社会の常識はほとんどの大人が普通に身につけ、社会共通で認識されていたが、ITにおける常識や危険性、利便性は実は大人も社会もよくわかっていないからだ。これが冒頭で触れたカンニング事件が示唆する感性の隔絶である。

 旧世代は一般社会のルールをネットに適用しようという方向性で、IT世界の規範を作ろうとしてきた。その際には、巷間で言われ尽くした「ネットの匿名性」や「グローバル」などというフレーズで、ネットの特殊性を解決しようとしてきた。

 しかし、デジタルネイティブ世代では、それを特殊性と捉えず、あるがままに普遍的なものとして把握している。一般社会の規範に対する理解では旧世代に劣っても、IT世界を感覚的に理解し受け入れる感性は凌駕していると言って間違いない。

 その狭間に生まれた事件の一つが、日本中を騒然とさせた尖閣問題における動画漏洩事件だろう。漏洩を行った海上保安官は、まず最初に動画の持ち込みを従来のマスコミに対して行った。これは旧来の価値観に基づく問題提起の手法だ。しかし、それがうまくいかなかったとき、ごく自然と動画サイトにアップすることに取りかかった。これが新しい世代のアプローチである。保安官自身はデジタルネイティブ世代ではないが、社会人としてのキャリアをITの進歩とともに積み重ねてきた世代だ。二つの世代をつなぐ象徴的な過渡期世代であり、そのことが両者の隔絶を鮮明に見せる。

 今どき文書に限らず、動画や図面など組織活動のデータはほとんど、デジタル管理の下にある。そして多くの場合、機密書類にアクセスできる端末は厳しい制限下にあり、光ディスクやUSBメモリなど外部メディアは利用できない。外資や大手企業ほどこうした規制は厳しく、多くの場合はデータだけでなく従業員が使用するPCをも厳格な管理下に置いている。

尖閣動画漏洩事件の示唆

 一方で官庁など公的機関では意外とこうした規制が緩い。先に触れた警視庁の機密資料漏洩事件でも、規則自体はあったものの運用は甚だアナログだったと言われており、データ管理の「実」は不要で「名」だけが必要だったと指弾されても仕方ない状況だった。

 振り返ってこのケースを見れば、漏洩された動画データはアクセス制限のない領域に保存されており、容易に動画データをコピーできたことが、そもそもの出発点だ。このこと自体は、おそらく動画自体がそれほどの制限をかけられるデータでないと判断されていたためと思われるが、本稿で是非を問うものではない。しかし、カンニング事件と同様で、データコピーが困難な環境にあれば、保安官は果たしてこのような事件を起こしたであろうか。不当・不正行為に対する抑止効果の面で規律の「実」は大きい。ここが本事件の肝要な箇所と言える。

 また、海保庁監督層の「情報」への認識の甘さも明らかになった。一度デジタルデータとして流出してしまえば、もはや誰にも拡散を止めることができない。これが現代のネット社会におけるデータ保持の危険性だ。このことを組織が理解していれば、安易なデータ管理を行っていただろうか。政局をはじめ国内だけでなく、外交にもわたる大事件の生データであっただけに、幾重ものセキュリティをかけていたのではないか。

 結果として、この事件は書類送検といううやむやな形で終わりを迎えた。公務員の守秘義務が課せられるとしても、コピーが容易な「軽い情報」の漏洩に手を染めた保安官を責められない、「よくやった」との国民感情に配慮せざるをえないとの判断もあったのだろうが、監督する側の問題意識の欠如までがうやむやになってしまったのは、いかんとも肯んじがたい。

判例法主義では裁ききれないネット犯罪

 行政府においては旧世代のデジタル技術に対する理解の隔絶を、尖閣動画漏洩事件が顕著に示したが、同様の感は司法の場でも判決を通して痛感させられることが多い。なかでも、とくにIT関係者に衝撃を与えたのは、04年のファイル共有ソフトWinny の開発者を有罪とした一審判決だっただろう。

 このソフトのユーザーが違法コピーなど著作権法に反したとき、罪に問われるのは当然だが、この事件ではソフト開発者もまた幇助共犯として逮捕、起訴された。当時、不法行為に利用される予見性についてかなり言及されたが、技術をはじめとするツールは、よいものにも悪いものにも使われる。刃物は非常に便利な道具だが、命をも落とす危険な道具でもある。だからといって、刃物を否定する者は皆無だろう。危ない使い方をする者が罪に問われるだけである。ファイル共有ソフトは悪意ある用途が専らではないか、という捜査当局の言い分は検挙する側としてやむをえないが、その言い分を丸飲みしたような一審には多くの疑問が投げかけられた。

 控訴の後、09年10月の高裁判決では有罪とした一審判決が破棄され、現在は最高裁に上告されその判断を待っている状況であるが、そもそもITに関する事件は判例のないことが多い。そのため判例法主義の裏返しで、司法の判断はどうしても裁判官個人の理解、見解に左右される。新しい技術や時代背景を重視する裁判官もいれば、保守的とは言わずとも、社会全体の理解を重視して新技術に対し慎重な姿勢を取る裁判官もいる。だからこそ判決が二転三転するのだが、裁判官を社会の良識を代表する裁定者として見た場合、これは社会道徳と新技術の葛藤と見て取ることができる。

社会道徳と新技術の葛藤

 その視点に立ったとき、この1月に大きな司法判断があった。最高裁が判断を下した「遠隔操作によるテレビ視聴(録画)」の是非である。

 同月18日、ロケフリを用いて海外でテレビ番組を試聴できる仕組みを提供していた「まねきTV」について、また20日にはテレビ番組を録画しネット経由で海外でも視聴できる仕組みを提供していた「日本デジタル家電」についての判決が下され、それぞれ一審、二審ともに被告側が勝訴していたが、最高裁で判断が覆された。

 一審、二審では、これらは基本的にユーザー自身がテレビ番組を見る環境を提供しているに過ぎず、TV局の公衆送信権を侵害しないという判断だった。とくに二審は、知的財産を重視する流れで05年に設立された専門の知財高裁の判断だけに、現在の技術に照らし合わせた妥当な判断だったように思う。

 それが最高裁では、おそらく高次の社会的規範の観点から公衆送信権の保護を重視し、より厳密な定義がなされた。そして、両者の仕組みが誰でも申し込めば利用できることから公衆送信権を侵害すると判断した。

 判決の詳細な分析や評価は専門家に譲るとして、ネットを使った遠隔操作はもはや日常的な技術、サービスとなっている。しかし、最終的な司法判断は最新の技術を利用したサービスに、より厳格な規定を求めた。この意味は非常に大きい。一般社会の規範が必ずしも最新の技術に対応したものではないことを顕著に示す事例と言える。

シフトする価値観に即したモラルを

 これまで挙げてきた事例は、しばしば体制・既得権益者と新規参入という対立の構図で表されるが、本質的な問題は新しい概念や技術、ビジネスモデルが一般的になるには時間が必要であり、それまでの間、社会規範の適用が難しい世界が生まれるところにある。それゆえネット社会においては、現実にある世界に対して法や規範が後追いする形になってしまう。スパムメールや広告メールは、まさしくそうした流れを追って規制化された。

 もちろん、こうした後追いの規制が悪いわけではない。たとえば青少年保護に関する規制については、いくつかの問題点が指摘されながらも有害サイトへのアクセスを制限するフィルタリングに、総務省を監督官庁に警察庁や地方自治体、事業会社、業界団体が組織だって取り組んでいる。制限すべきかどうかの判断、リスト作りにも第三者機関による認定や検証を設けるなど、一定のコンプライアンスにも配慮しており、社会が自主的に規範の空白を埋めるための枠組みは構築されつつあると言えるだろう。

 その一方で警察庁は2月17日に、各都道府県警を通して行ったフィルタリングに関する覆面調査の結果を取りまとめたが、販売店のおよそ4割ではフィルタリングの利用を促す説明などが不十分だったとの報告がなされている。社会の総体としては問題意識を持って枠組みを作ったとしても、組織の末端では必ずしも共有されておらず、意識の乖離がいまだ埋まらずということを、図らずも証明してしまった。

 このように考えると今回、編集部より「ITと教育」という題をもらったが、教育とは世間一般が考える若年層に対するものと限定的に捉えるだけでは不十分なことに気付く。社会全体に教育を施しコモンセンスを築くことや、旧世代のインテリ層に教育を施し旧来の価値観との摺り合わせを行うこともまた、ITに求められている教育ではないだろうか。

 とくに、旧来の価値観との摺り合わせは、ITが社会を変革するというフレーズの下、社会自体が意識的に放擲してきたものと見えなくもない。ITの普及により自ずと社会が変わるとの考えは、ITを先進的とする優越感に由来する甘えであったように思う。

 これは、家族観の下にたとえると、もう少しわかりやすい。摺り合わせの欠如は、90年代にITに積極的に取り組んだ世代の、親の世代に対する反発と甘えであり、ITが普遍となった現代社会のルールが円滑に機能していないのは、デジタルネイティブな子どもの世代に対する戸惑いと遠慮である。ただ、これらの解決は結局のところ、老親と子どもへの根気強い教育しかないのは、家庭にたとえれば自明のことだろう。

 その意味では昨今、本稿で取り上げたような事象が頻発している責は、われわれITに馴染んだ世代に求められるものであり、そのことを一層、自覚していかなければならないのではないだろうか。そうした同一世代における相互的な教育もまた、求められている。

※『IT批評 2号 特集:ソーシャルメディアの銀河系』(2011年5月刊行)より大賀真吉さんの「揺れるネット社会の規範─求められるIT教育は?」を転載
『IT批評』
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記者:

ITの進化を探り、ビジネスの進化を図る

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