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『千日の瑠璃』417日目——私は不安だ。(丸山健二小説連載)

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私は不安だ。

湖畔の別荘で余生を送り、一日中小ざっぱりとした身なりで過す元大学教授、そんな彼の寝こみを襲う、不安だ。彼は夕暮れの侘しさといっしょに配達された古い友からの手紙を、ざっと読み下した。そして、都立大から客員教授としての殊遇を受けることに内定した友を祝って、取っておきの葡萄酒の栓を抜いた。「よかったわねえ」と彼の妻が嫉妬を気振りにも見せずに言った。

少々呑み過ぎた彼は、風呂場で軽いめまいを覚え、浴槽の縁につかまって事無きを得たものの、胸のうちの混乱はそう簡単にはおさまらなかった。挙句に彼は、自分の晩年は不遇であった、という出してはならない答を出してしまった。覇権主義を振りかざす時の政府の眼鏡に適った彼の論文は、三十になっても身過ぎができなかった腑甲斐ない学者の卵を、一夜にして国民的な知識人に仕立てあげた。文学のみならず美術にも長じていることや、併せて堂々たる風格を備えていることが、一層彼の声価を高めることになったのだ。

だが、終戦と同時に彼の名誉は失墜した。そのあと彼は長い長い歳月をかけて失地回復を図り、園遊会に招かれるところまでどうにか戻れたものの、もはやそれまでだった。湖岸の道を通って行く少年の震える口笛が、私の味方をした。彼の妻が私を追い払おうとして、「秋のせいよ」と夫に言い、窓をばたんと開けて、「あっちへ行って!」と少年に言った。
(11・21・火)

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