『千日の瑠璃』269日目——私はくつろぎだ。(丸山健二小説連載)

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私はくつろぎだ。

予定よりも早くギプスを外すことができ、《三光鳥》の女将を煩わせずに入浴できた娼婦のくつろぎだ。洗いざらしの浴衣に着替えた彼女は、縁側に出て、連日の雨で伸び放題になっている庭木や、泣き言に似た波音を放つうたかた湖をぼんやりと眺めながら、涼んでいる。折れた骨は二度と折れないほど頑丈に接ぎ合さっており、折られたときの恐怖も半減している。また、月に一度の割合で情緒を乱す血液も出るだけ出てしまって、彼女はゆったりと私に浸っていられるのだ。

生来の楽天家である彼女は、きのうを夢のようにして忘れ、あしたを気に病むこともなく、よく冷えた一杯のビールのなかへ大胆に心を解き放つ。彼女は、病院からの帰りに曲り角で鉢合せをした少年世一のことを思い出して、独りで笑っている。胸のところだけ白くてあとは全部青いシャツを着た世一は、彼女にまったく気がつかなかったのだ。呼びとめられてもさっさと行ってしまった。おそらく鳥になり切っていたからだろう、と彼女は考える。塀の向うで虎毛の秋田犬が吠えかかると、世一ははばたきのつもりの腕の上下運動をやめて一目散に逃げ出した。

娼婦は慌てふためく世一の姿を思い出して笑う。その朗笑のなかへいきなり長身の青年がずかずかと割りこんでくる。彼の「あしたから働けるか?」という質問にも彼女の笑いはめげず、私もまたぶち壊されたりはしない。
(6・26・月)

丸山健二×ガジェット通信

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