藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#56 守護霊

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 果たして守護霊というのは、何なのか?そして実際存在するのだろうか?

 書店のスピリチュアルコーナーに行くと、守護霊に関する本が並んでいることが多い。日本人にとっては先祖供養の枠の中でも語られるので、多くの人にとって耳に馴染みがあるだろう。
 霊とされるのだがから、まず霊そのものの存在をどう扱うかが大切だ。つまり死後の世界を肯定するか否かの問題が入り口にある。他国のことは分からないが、私が一人の日本人として感じるのは、大方の人が死後の世界の存在を認めているということだ。通夜や葬式の席で故人を語る時にそれは分かりやすく現れていて、「身も心も魂も、すべて消えちゃったねえ」と言う人はおらず、「今頃、どうしてるだろう?」「今頃、大好きな寿司を食べてるね」「今頃、まだその辺にいるんじゃない」などと口々に言う。それは、ペットなどに対してもそうで、遺灰を抱きながら、やはり「今頃走り回っているねえ」などと口にするのである。
 おそらく、あまり深くは考えていないだろうが、大雑把に死後の世界が存在することを認めているのだと思う。もしくは、確信はないけれど、慣例的にそう認めているのだろう。まあ、それでよしとされているのである。
 だが、死後の世界は認めていても、守護霊の存在って信じる?と質問されたら、ちょっとたじろぐかもしれない。守護霊を信じるということは、大まかに認めておけばよかった死後の世界に、ちょっと踏み込むことになりそうで、なんとなく避けたい気持ちになるかもしれない。守護という言葉に救われそうではなるが、霊という響きに気味悪さも感じているのだろう。
 なぜヒーリングをテーマにした話の中で、守護霊の話題を出したかというと、霊に守ってもらうということが本当だとしたら、それはもちろんヒーリングの範疇に入るからだ。
 話の発端は、7年ぐらい前に遡る。当時沖縄の宜野湾に住んでいた私に、隣人から一冊の本をプレゼントされた。隣人はアメリカ暮らしを経て帰国した家族で旦那さんは私と同い年、お互いの子供達の年齢が近いこともあって、親しくさせていただいていた。どういうきっかけかは忘れたが、彼らからプレゼントされた本は、ある日本人スピリチュアルヒーラーの著作であった。とはいっても、彼らがそのヒーラーに心酔しているというわけではなく、世界の捉え方として興味深いという点から勧めてくれたのだ。

 ちょっと話は逸れるが、沖縄はスピリチュアル系に対して開いている土地だと思う。それを実感したのは、ある全国的な古書チェーン店でスピリチュアル系の棚の充実に驚いたことによる。以前住んでいた神奈川の逗子の同支店とは倍以上も点数が違うのだ。国内で訪れる各地でも、それを確信させることが軒並み続いた。沖縄はもともとスピリチュアル系への関心と感度が高いと私は思う。これは一般会話でも、そういうことを口にすることが憚れる雰囲気が特にないことに繋がる。先祖崇拝や、民間のシャーマン的な存在であるユタの存在もあり、目に見えないが確実に存在する世界があることを、重々承知しているようだ。街を行けば、聞きなれない治療法を記した看板を見かけることも多い。神道や仏教が本土ほど普及していないのには、すでに十分の持ち合わせがあるからだろう。

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 で、話を戻すと、そういうこともあり、スピリチャル系の本を友人に勧めたりすることも、それほど気にせずできる風土なのだろう。そして、その本はとても興味深いものであった。A5サイズで467ページにぎっしり小さめな字で綴られているのに、するすると読み進めることができた。この手の本に向けられがちな疑念を一つも持たずに済んだことも不思議で、全体として納得がいく内容であった。そして、スピリチュアルヒーラーという職業に接して、世の中にはこんな生き方もあるのだなあと、まず感心した。

 守護霊について、腑に落ちることがこの本に書いてあったと、今回改めて読んでみたのでだが、私の思い違いだったのか、そこには言及していなかった。もしくは、見つけられなかった。私の記憶では、霊界には、守護霊、指導霊、大霊が存在していて、大霊は、全宇宙を司る大きな力、もしくは神に置き換えられる。守護霊は、私たちをいつも見守ってくれている存在で、それに対し指導霊はコーチみたいなもので、魂の成長とともに入れ替わったりする。確か、そういうことが記されていたはずであった。
 ともかく私は、守護霊、指導霊、大霊という区分けに、妙に納得し、1日の始まりの瞑想には、彼らに今日1日よろしくお願いします、と心の中で声をかけ、1日の終わりの瞑想では、今日もありがとうございました、と感謝するのが習慣になった。現在、いずれの宗教に属していない私ではあるが、これもひとつの信仰だと認めている。目には見えないが確かにある何かを信じるということは、ひとまず謙虚になれるというメリットがある。そして何かに守ってもらえているということで安心感がもたらされる。

 私たちの全ては、母親からこの世に生まれた。胎内という優しく心地よい海から出て、母と繋がったヘソの尾を切られ、突然一人になってしまった孤独を癒してくれたのは、母親であり、父親であったろう。私たちは、無償の愛を心だけでなく体の養分として、成長を果たしてきた。もちろん、受ける愛は親や環境によって差はある。求めるに足りる十分な愛を受けずに成長してきた人もいるだろう。幼い頃の私は、愛されることに敏感であったように思う。実際はどうであれ、不足気味に感じていた。基準値などないのだから、これは個人の感覚のよるところであり、持って生まれた欠落感と一生付き合うことになっている人もいるだろう。もともと新しい命の成長や発展のための方向づけが、欠落感として仕組まれている可能性もある。
 幼い日に感じていた「遠さ」に似た悲しみは、どこから来てどこへと生きていくのだろう、という痛みを伴って、いまだに拭えていない。ただ、本当の意味での孤独は感じていなかった。目に見えている親とは別に、何かに守られている感覚ははっきりとあったからだ。無論、宗教の概念が知識として入る以前の頃からだ。おそらくそれが守護霊や指導霊と後日知ることになるものだったと思う。

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 妄想と想像との違いは、明暗に関わらず、前者が現実生活に支障をきたす妨げになるのに対し、後者は現実を受け入れて生きていくことを励ます助力となる。守護霊、指導霊は、想像の産物だとしても、それを感じる人を支えてくれる。そう私は考えている。
 では、守護霊とは、いったい私たちを何から守ってくれているのだろう。人の一生には数々の不幸が訪れる。自らの命を絶つ人もいる。犯罪に手を汚してしまう人もいる。もし、誰にでも守護霊がいるのなら、彼らはどうして不幸になってしまうのか。なぜ守ってもらえなかったのか。当然そういう疑問を抱く。
 これは、神はどこに?という疑問の出先機関のようだ。
 不幸に見舞われた時に、人類は前後左右上下斜めを見回して、いつも嘆いてきた。「私たちの神はなぜ留守だったのか?」と。それに対し、神による試練だったり、成長するための苦しみ、だったり、カルマだったり、数々の説明がなされてきた。この場合も、それらの理由で語ることは如何様にもできるだろう。念のため、それらを端的に説明すると、因果律という考えを持ち出すことになる。悪いことをすれば悪いことが起き、善いことをすれば善いことが起きるということだ。これは守護霊といえども守りきれないとされている。これは文系というより理系、物理学的なことだと思う。全体として調和のためには、一方に動いた振り子が元に戻る法則のようなものだと私は捉えている。悪事をした者は、その悪分だけの不幸を引き受けることでバランスを取り、全体が崩壊するのを防ぐということだ。ここでいう全体というのは、宇宙全体のことであるが、宇宙とは私たちの周囲だけでなく、この心身の内側にも宇宙としてある。その宇宙の調和の持続のために個人に与えられている使命を全うさせるため、それを阻害する何かから守ることが守護霊の役割である。いわゆる不幸は因果律のせいであり、守護霊はむしろその因果律に沿うことを選ぶのである。もう少し付け加えるなら、個人の霊性を高めるため、それを邪魔する何かから守りはするが、因果律に関係することには、それが不幸をもたらすものでも関われないのが守護霊と言えるだろう。イメージとしては、そっと側でただ見守っている存在である。
 同行二人、という言葉がある。四国のお遍路などで有名だが、一人で巡礼していても、そばには空海さまがいつもいらっしゃる、ということだが、守護霊とはお遍路における同行者のようなものだと思う。

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 いうまでもなく、私たちは孤独である。他人と交われない寂しい人という意味ではなく、個として存在しているという厳粛な事実として、私たちは孤独である。誰かをパートナーとして生活しても、結婚という制度を受け入れても、家族を持っても、これだけは動かしがたい事実である。
 そして私たちは、この孤独をしっかりと受け入れ、自らの魂を高めるために生まれ、親と社会に育ててもらい、成長し、新しい命を繋いできた。人に優しく接し、しっかりと生き切ることが、魂の成長を促し、宇宙全体を進化させていく一粒の砂となり得る。それは孤独をしっかりと受け入れることから始まる。必要以上に他人に寄りかからずに、個をしかりと全うすることは、本来とても健やかで爽やかなことである。

 ただ、全くの孤独ではない。かたわらには守護霊がいてくれる。見守ってくれる絶対的なパートナーである。とても地味な存在だが、私たちを裏でしっかりと支えてくれる。
 直感が効く時などで、その存在を感じられる指導霊というのもあるが、それに比べてもかなり地味な存在だが、その人の成長に合わせて随時変わっていくコーチのような存在の指導霊に対して、生まれてから死ぬまでずっと付き添ってくれるのが守護霊である。

 様々なレベルの魂が同時代同一の場所に存在しているため、基本的に、生きづらいのは当たり前なのだが、そういったストレスの中にあってこそ、個をしっかりと保ち成長させようとする肯定的な意思を保ち続けることが大切で、そのために時々は守護霊の存在を感じてみるといい。といっても呪文を唱えて壺の中から煙となって出現させるわけでもなく、ただ穏やかな時間や、就寝前にベッドに入った時にでも感謝の言葉を伝えるだけでいい。守護霊さま、と呼びかけると、何か身体に感じるかもしれない。安堵感に包まれるかもしれない。孤独を肯定的に受け入れ、自身の魂を高めようと日々を生きていれば、守護霊の存在がきっと感じられると思う。
 目に見えるパートナーや家族の他に、自分を支えてくれる存在がいるということは、とても楽な気持ちにさせてくれる。ただ、決して寄りかからず、孤独を生き切ること。その美しさこそ、本当に自分を守ってくれる術だと思う。

※『藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」』は、新月の日に更新されます。
「#57」は2018年8月11日(土)アップ予定。
 

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