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オトナになりきれず、コドモにもどりきれない私たちのために。映画「牯嶺街少年殺人事件」「台北ストーリー」

(文=南波克行/『キネマ旬報 2017年11月上旬特別号』より転載)

二度の殺人事件が救うもの

かつてモラトリアムという言葉があった。既に大人の年齢に達しながら、精神的に自立できず、大人社会に適合できない状態といった程度の意味だろうか。八〇年代半ばに広まり、バブルの終焉ごろには聞かなくなった。そしてそれは概ね、「台北ストーリー」(85)から「牯嶺街少年殺人事件」(91)が発表されるまでの期間に該当する。この二本は、まさにそのモラトリアム=ついに大人になれなかった者たちの懊悩を主旋律とする。

「台北ストーリー」で侯孝賢が演じる、青年というには手遅れ感のあるアリョンは、そこそこうまくいっていた少年時代の思いに焼かれ、冴えない日々を過ごしている。恋人アジンとの将来も先送りにして煮え切らない。「牯嶺街少年殺人事件」のチャン・チェン演じる中学生のシャオスーは、大人になる前の準備期間にいるが、正しい少年時代の形成を周囲の環境が阻害している。彼らの敵はなんの葛藤もなく社会に適合している同性、同世代の連中だ。二人はまさにモラトリアムの渦中にいる。

▲「台北ストーリー」アジン(ツァイ・チン)

真っ当に大人になること、それは自分の魂のいちばん大切な何かを相手に(しかしそれは誰に?)明け渡してしまうことではないか。思春期の一時期にそう悩む者は少なくないだろう。少なくともエドワード・ヤンの映画に、反応せずにいられぬ感性を持つ者は、必ずやそうした経験のある人間ではないか。この二作品はそんな心に肉薄する。

「牯嶺街少年殺人事件」でシャオスーの、かすかな敬慕の対象であるハニーは言う。「俺は二つのタイプが苦手だ。恥知らずな奴と死を恐れない奴」。しかし「恥知らずで、死を恐れない」というのはどういう意味だろう? 実はそれは自分の心を譲り渡して平気な種類の人間のことではないか。それは国歌斉唱に屈託なく唱和する少年たちや、「台北ストーリー」では会社帰りのネクタイ姿で居酒屋にたむろできる、アリョンの旧友たちを指してはいないか。

▲「牯嶺街少年殺人事件」 シャオスー(右/チャン・チェン)とシャオミン(左/リサ・ヤン)

今回「台北ストーリー」と「牯嶺街少年殺人事件」が同時にソフト化される。その喜びは、あまりに長い年月を待ちわびたソフト化の実現以上に、エドワード・ヤンが描いた少年から大人への移行に足踏みするモラトリアム期間を、何度でも追認できることにある。自分の中の忸怩たる苦々しさに、物語というプリズムを通して向き合うことができる。その意味で、ヤン作品の中でも特にこの二作品を連続して見ることは得難い体験だ。アリョンもシャオスーも敗者には違いない。けれど敗者でないことがイコール、勝ちを意味しはしない。この二本には、その深い矛盾が全篇に張り巡らされている。たとえば「台北ストーリー」でゼンマイじかけのペプシコーラ缶の玩具は、デスクの上を歩き始める。しかしやがて行き場を失い、動きを止めてしまう。八〇年代のまさにこの頃、いわゆるコカコーラとの「コーラ戦争」に勝ったペプシは、企業として栄華を極めていた。しかしいつまでも頂点にあるはずがないことは語るまでもない。

居酒屋で同席した旧友に、賭けダーツを迫られたアリョンは、金がないなら時間を賭けろと言われる。時間を賭けるとは、負けた時間だけ自分たちに付き合えと。つまり真っ当な大人としての時間を差し出せということだ。そのような賭けにアリョンが勝てるはずはないが、もとより競っているつもりもない。しかし自分の少年時代をからかわれたことで、ついにキレて殴り合いになってしまう。童顔で優しそうな風貌のアリョンだけに、この突発的な暴力に慄然とする。明け渡せないものはあるのだ。

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