ジャーナリズムが批判される時代(メカAG)
今回はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。
ジャーナリズムが批判される時代(メカAG)
インターネットがなかった頃、昭和の頃は、ある意味マスコミはやりたい放題だった。もちろん信頼できるメディアもあったが、そうでないメディアも闊歩していた。常にセンセーショナルに大衆を煽る週刊誌。
それらの中には一面の真実は含まれていただろうが、ある部分は誇張され別な部分は無視され、そのジャーナリストにとって「好み」の歪んだ情報だった。オカルト雑誌ムーみたいな。
誤解のないようにことわっておくと、俺は情報を歪めること自体は否定しない。問題の本質をわかりやすく提示するには時として歪めることも必要。虫眼鏡で拡大したり、ノイズをフィルターで除去したり。これは公的研究機関の発表にも当てはまること。どんな情報もその情報を提示する「意図」を反映して加工されている。
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ただいま思い返すとその情報の加工に対する論評の場が不足していたように思う。専門家同士の論争とかあったけど、大衆は「どっちもどっち」と大雑把に捉えて、細かくは追いかけなかった。そもそもそういう場が週刊誌同士の論争とか、ペースが遅く、情報がバラバラなので、すべてを把握するにはかなり積極的に力を入れて研究する必要があった。多くの人はそこまでしない。
インターネット時代になってこの点は変わったと思う。専門家同士の論争だけでなく、それをまとめ整理した「マニア」、いわば情報のセミプロ的な人たちが、自分のサイトを開設していった。UFOや超能力とかの解説サイトとかね。「この本のこの箇所によれば~」と散らばってる情報がまとめられていて便利だった。
現在は一次情報もネットにあることが多いので、さらに便利になった。「このニュースのこのサイトでの解説によれば~」と望めば一次情報を直接読めるようになった。
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ネットがない時代というのは、出典を追いかけるのが現在では想像もつかないほど手間がかかった。本を買って読まなければならない(笑)。海外の本だと手に入れるのに手間だし、何ヶ月もかかったり。
雑誌類とかはバックナンバーを取り寄せないと駄目だし、そもそももう入手出来ないものもあった。どうしても見たいものは国会図書館に言ったり。
それがいまや座してマウスをクリックしていれば情報が手に入るのだから、夢のよう。逆に相対的にそういう研究の希少性はむかしよりは低下したけどね。その気になれば誰でもできる。
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そして一番の変化は、そうしたジャーナリズム批判サイトを大衆が読むようになったこと。上述のようにジャーナリズムを批判している人たちは昭和の時代もいた。しかし彼らの研究内容自体が大衆の目に触れる機会がすくなかった。せいぜい週刊誌やテレビ番組が目をつけて紹介する程度。
ジャーナリズム批判がジャーナリズムの一分野を形成し、大衆にとって身近になったのは、やっぱインターネットのおかげだと思う。昭和の時代も研究者はいたが、大衆に注目されることはなかった。「研究」であって大衆に向かって開かれたジャーナリズムではなかった。
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その意味でインターネット以前と以後では、断絶がある。以前と以後で互いに通用しない常識ができた。戦前の皇国史観と戦後のアメリカ型民主主義ぐらいの断絶。ネットでしばしば起こる揉め事というのは、これだと思うのだよね。社会が不連続に変化したので、個々の人間がどっちサイドにいるかで、互いに常識が通用しない。
ネットで巻き起こる騒動を、個人の感情やモラルの問題としか捉えていない人が多いけど、そういう次元のものではないと思う。そういうものを「むかしはそんなのはなかった」のだから、「むかしに戻そう」というのは、「むかしはよかった」というのと同じ。ヘイトスピーチとかもね。変化は受け入れるべき。というよりもとには戻らない。先に進むしか道はない
執筆: この記事はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。
寄稿いただいた記事は2015年01月08日時点のものです。
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