今月末で著作権保護期間が満了する先人たち‥2014・その1【日本文学編】
2014年も残すところ1か月を切りました。それは、今年が亡くなってからもしくは法人名義で公表されてから50年目に当たり、来月から新たに『青空文庫』他のアーカイブで公開されるパブリックドメインの作品が出て来ることを意味します。そこで、昨年ご好評をいただいた特集に引き続いて今年ももうすぐ著作権保護期間を満了し、生前の著作がまもなく“自由化”される先人たちを分野ごとに紹介して行きます。
来年は環太平洋経済連携協定(TPP)やEUとの経済連携協定(日欧EPA)の情勢次第でこの特集自体が出来なくなる可能性もありますが、最後までお付き合いいただけると幸いです。
尾崎士郎(1898-1964、代表作『人生劇場』)
1898年(明治31年)、愛知県生まれ。早稲田大学政治科を中退後、社会主義者の堺利彦が興した売文社に参加する。1921年(大正10年)に『獄中より』で時事新報の懸賞小説で二席に入賞する。1933年(昭和8年)から都新聞(現在の東京新聞)で連載を開始した半自叙伝『人生劇場』全7編は足かけ26年を費やす大長編で何度も映画化されているが、大政翼賛会の協力団体として組織された日本文学報国会の常任理事を務めていたため戦後は公職追放処分を受けている。没後に文化功労者を追贈された。
出身地である愛知県西尾市と晩年を過ごした東京都大田区にそれぞれ記念館が開館している。『青空文庫』では『土俵の夢』と『本所松坂町』の2作品が公開に向けて入力作業中だが、代表作の『人生劇場』はまだ作業が始まっていない模様。
三好達治(1900-1964、代表作『測量船』『春の岬』)
詩人。1900年(明治33年)、大阪市生まれ。旧制市岡中学を中退後、陸軍幼年学校を経て士官学校に入学したが脱走して北海道へ渡り放校処分を受ける。実家の破産で苦学を強いられるも叔母の援助で東京帝国大学仏文学科に入学し、梶井基次郎らと同人誌『青空』で詩を発表した。同時期に萩原朔太郎と知り合い『詩と詩論』創刊を手伝う。
戦況が悪化の一途をたどる1944年(昭和19年)には最初の妻・智恵子(佐藤春夫の姪)と離婚して朔太郎の妹・アイと再婚し、2人で福井県坂井郡(現在の坂井市)三国町へ転居するもほどなく離婚してしまう。1949年(昭和24年)までを三国町で過ごしたのち、東京都世田谷区へ移り終生を過ごした。
大阪府高槻市の本澄寺境内に記念館がある。『青空文庫』では詩集『測量船』や評論『萩原朔太郎』など25作品が公開に向けて入力作業中。
佐藤春夫(1892-1964、代表作『田園の憂鬱』『晶子曼荼羅』)
1892年(明治25年)、和歌山県東牟婁郡新宮町(現在の新宮市)生まれ。慶応義塾大学文学部に入学し、教授であった永井荷風に学ぶも中退する。二科展で連続入選するなど絵画で非凡な才能を発揮したが小説『田園の憂鬱』で文壇の注目を浴び、また文学評論を精力的に発表、1921年(大正10年)刊の『殉情詩集』で抒情詩の才能を広く認められるなど世間を驚かせる多才ぶりであった。
戦中は従軍文士部隊に加わりマレー半島・ジャワの戦線を視察する。戦後は講談社の『群像』など複数の文芸誌立ち上げに参加するかたわら、全国各地を旅行し紀行文を執筆した。1960年(昭和35年)、文化勲章を受章。1964年(昭和39年)、自宅でラジオ番組のインタビュー収録中に心筋梗塞の発作を起こし逝去。
出身地の新宮市にある熊野速玉大社境内に記念館がある。『青空文庫』では『オカアサン』『忘春詩集』『我が一九二二年』の3作品が入力作業中。
川野彰子(1928-1964、代表作『色模様』『廓育ち』)
1928年(昭和3年)、鹿児島県の奄美大島に生まれる。立命館大学文学部を卒業後、開業医で同郷の川野純夫と結婚する。1962年(昭和37年)に『色模様』で鮮烈なデビューを果たし、新人ながら第47回直木賞候補となった。1964年(昭和39年)に映画化された『廓育ち』は第50回直木賞で再び候補作となるが受賞を逃し、将来を嘱望される身であったが36歳の若さで急逝。
生前は第50回芥川賞を受賞した田辺聖子と親交があり、亡夫の純夫(2002年没)は田辺が神戸新聞に彰子の追悼文を寄稿した縁で田辺と再婚した。NHKドラマ『芋たこなんきん』に登場する「カモカのおっちゃん」のモデルとしてもよく知られている。
『青空文庫』の入力作業リストには未登録。
(その2に続く)
画像:尾崎士郎(1955年撮影)
青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/ [リンク]
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