日本のシンガポール化について

日本のシンガポール化について

今回は内田樹さんのブログ『内田樹の研究室』からご寄稿いただきました。

日本のシンガポール化について

「シンガポールに学べ」という論調をよく見かける。
今朝の毎日新聞にもそういう記事が出ていた。
こんな記事である。

シンガポールの高級住宅街に一人の米国人移民が暮らす。ジム・ロジャーズ氏(70)。かつてジョージ・ソロス氏と共にヘッジファンドを設立。10年間で4200%の運用成績を上げたとされる伝説的投資家だ。市場は今もその言動を追う。

「シンガポールは移民国家だからこそ、この40年、世界で最も成功した国となった。移民は国家に活力や知恵、資本をもたらす」。プールサイドで日課のフィットネスバイクをこぎながら熱弁をふるう。

シンガポールの人口531万人のうち4割弱が外国人。超富裕層から肉体労働者までさまざまな移民を積極的に受け入れる。少子化にもかかわらず人口は過去10年で100万人以上増えた。1人あたり国内総生産(GDP)は2012年は世界10位。5万ドルを超え、日本をしのぐ経済成長を遂げる。「外国人嫌いなのは分かるが、日本もシンガポールを見習うべきだ」と話す。

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シンガポールは人口の75%を中国系が占める華人国家だ。10年の経済成長率は14.7%と1965年の建国以来、最高を記録し、ロジャーズ氏の見立て通りに発展しているかに見える。国別対外投資額で中国はトップ。人民元決済を始め、対中貿易・投資の拠点として足場を固める。移民受け入れを拡大し、2030年に人口690万人を目指す。」

連載記事であるから、明日以降シンガポールの「とてつもない欠陥」に論及されて「やっぱりシンガポールはダメだよね」という結論になるのかも知れないが、今のところある種の人々(超富裕層)からは「世界で最も成功した国」とみなされていて、他の国も競って「シンガポールみたいになるように」というアピールだけが紹介されている。

実際に日本人でも「シンガポールに学べ」ということを言う人たちはけっこう多い。

そういう人たちの中で「シンガポールは経済的な活力を得る代価としてこれだけのものを『失っている』」という損益対照表を作成して、その上で「それでも、差し引き勘定すると、日本のシステムよりシンガポールのシステムの方がすぐれている」と論じた人がいるだろうか。私は寡聞にして知らない。

ロジャースさんのような人たちは別に「他の国の人たち」の幸福を切望して「シンガポール化」を促しているわけではない。

そう思っている人がいたら、よほど善良な魂の持ち主である。

こういう人がある政策を薦めるのは「そうしてくれると、オレが儲かるから」である。それ以外の理由はない。

日本メディアのシンガポール関連記事はその経済的な成功や、英語教育のすばらしさや、激烈な成果主義・実力主義や、都市の清潔さについて報告するけれど、シンガポールがどういう政治体制の国であるかについては情報の開示を惜しむ傾向にある。

だから、平均的日本人はほとんどシンガポールの「実情」を知らない。

シンガポールの「唯一最高の国家目標」は「経済発展」である。

平たく言えば「金儲け」である。

これが国是なのである。それがthe only and supreme objective of the State なのである。

政治過程や文化活動などはすべて「経済発展」の手段とみなされている。

だから、この国には政府批判というものが存在しない。

国会はあるが、ほぼ全議席を与党の人民行動党が占有している。1968年から81年までは全議席占有、81年にはじめて野党が1議席を得た。2011年の総選挙で人民行動党81に対し野党が6議席を取った。この数字は人民行動党にとっては「歴史的敗北」とみなされ、リー・クアンユーはこの責任を取って院政から退いた。

労働組合は事実上活動存在しない(政府公認の組合のみスト権をもち、全労働者の賃金は政府が決定する)。大学入学希望者は政府から「危険思想の持ち主でない」という証明書の交付を受けなければならないので、学生運動も事実上存在しない。「国内治安法」があって逮捕令状なしに逮捕し、ほぼ無期限に拘留することができるので、政府批判勢力は組織的に排除される。えげつないことに野党候補者を当選させた選挙区に対しては徴税面や公共投資で「罰」が加えられる。新聞テレビラジオなどメディアはほぼすべてが政府系持ち株会社の支配下にある。リー・クアンユーの長男のシェンロンが今の首相、父とともにシンガポール政府投資公社を管理している。次男のリー・シェンヤンはシンガポール最大の通信企業シングテルのCEO。シンガポール航空やDBS銀行を傘下に収めるテマセク・ホールディングスはシェンロンの妻が社長。

李さん一族が政治権力も国富も独占的に私有しているという点では北朝鮮の金王朝のありかたと酷似している。

たしかにこんな国であれば、経済活動はきわめて効率的であるだろう。外交についても内政についても、社会福祉や医療や教育についても、政府の方針に反対する勢力がほとんど存在しないのだから。

李さん一家が決めたことがそのまま遅滞なく実施される。

上記のロジャースさんはきっと李さんファミリーの「ゲスト」くらいの格でシンガポールに滞在しておられるのだろうから、彼がシンガポールの政治経済のかたちが「オレ的には最高」と評価したとしても何の不思議もない。

日本を「シンガポール化する」というのは、端的には日本の政治制度を根本から革命して、この独裁的な統治形態(平たく言えば「王制」)を導入するということである。

シンガポールだって、中国だって、サウジアラビアだって、アラブ首長国連邦だって、60-70年代のアジア・アフリカの開発独裁だって、遠くは第三帝国だって、独裁制がしばしば劇的な経済成長をもたらすことは周知の事実である。

日本を「シンガポール化」したいと言っている人たちにしても、経済システムだけを「いいとこどり」して真似ることは難しいということは先刻ご存じなのである。

労働運動、学生運動はじめとするすべての反政府運動の抑圧とマスメディアの政府管理も併せて実現しなければ、効率的な経済発展は難しいことは彼らだってわかっているのである。

でも、それを口に出して言うと、さすがに角が立つので、今は口を噤んでいる。

そして、「日本のシンガポール化」について総論的に国民的合意がとりつけられたら、その後になってから「あ、『シンガポール化』という場合には、治安維持法の発令と、反政府運動の全面禁止はもちろんセットになっているわけですよ。何言ってるんですか。知らなかった?金もらうだけもらっておいて、いまさら『知らなかった』じゃ通らないですよ」と凄むつもりなのである。

実際に今の日本ではひそかに「シンガポール化」のための伏線設定が進行しているように私には見える。

最も顕著なのは「唯一最大の国家目標は経済発展であり、国家システムはそれに奉仕する限りにおいて有用である」という国家概念の転倒を模倣しようとしていることである。

シンガポールの場合は、民主主義や基本的人権の尊重といった国家の根幹にかかわるシステムに重大な瑕疵があることを官民ともに知りつつ「でも、経済発展しているんだから、まあいいか」とシニカルに言いつくろっている。

ある意味では合理的だし、ある意味では「官民共犯的」とも言える。

だが、日本の場合はそうではない。

「経済発展するために」という名目で統治システム上の矛盾や不合理をこれから作り出そうとしているのである。

憲法を改定し、国民主権を制限し、基本的人権を制約し、メディアを抑え込み、労働組合をつぶし、「危険思想」の持ち主をあらゆるセクターから閉め出し、「超富裕層」が権力も財貨も情報も文化資本も排他的に独占するシステムを、これから作為的に作り出そう賭しているのである。

「そうしないと、経済発展しないのですよ」というのが彼らの切り札である。

今日本のマスメディアはほとんどがこのコーラスに参加して、音域は違うけれど、同じ歌を歌っている。

いずれ日本人は「経済発展できるなら、統治のかたちなんかどうでもいい」と言い出すようになるだろう。

「金がなければ、人権なんかあっても仕方がない」「金がなければ、平和であっても仕方がない」というような言葉を吐き散らす人々がこれからぞろぞろと出てくるだろう。

いや、すでに出てきているか。

執筆: この記事は内田樹さんのブログ『内田樹の研究室』からご寄稿いただきました。

寄稿いただいた記事は2013年08月23日時点のものです。

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