傑作『爆弾犯の娘』(ブックマン社)著者・梶原阿貴さんインタビュー 「私がこの本で伝えたいこと」

宮城刑務所に服役中の無期懲役囚、鎌田俊彦さんの獄中書簡を随時掲載する『そうぼう』というミニコミ誌がある。時々、その手紙の中で鎌田さんが「亜貴ちゃん」と呼ぶ女性との面会や手紙のやりとりが紹介される。「亜貴ちゃん」とは、映画『桐島です』で連続企業爆破事件の容疑者の生涯を描くなど、いま注目の脚本家・梶原亜貴さん(52)のことである。
鎌田さんは1970年代初頭に交番や米軍施設などを標的に爆破事件を実行した「黒ヘルグループ」のリーダーと目された人物だ。梶原さんの父親はこのグループの最年少のメンバーとして、爆弾闘争に身を投じた一人だ。一連の爆破事件に連座して指名手配され、14年間にわたって逃亡。実は自宅マンションで息を潜め、妻子とともに暮らしていた。多感な少女時代、梶原さんの父に対する思いは複雑だったが、持ち前の度胸と知恵を生かして快活に過ごしてきた。
私は、梶原さんが現在も鎌田さんをはじめ、かつての父の〝同志〟たちと交流を深めていることに興味を持った。今夏上梓した『爆弾犯の娘』(ブックマン社)はこれまで秘めていた出自を告白した自叙伝だが、自らの言葉でかつての爆弾闘争を捉え直そうという試みがなされている。また、現在の刑務所が抱えるさまざまな課題についても言及している。1970年代に若者を駆り立てた権力との闘いと、刑務所問題を焦点に改めて梶原さんにインタビューした。
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「爆弾犯の娘」の父、梶原譲二さんが参加していた「黒ヘルグループ」は新左翼系の党派には属さず、組織や規律を持たなかった。交番や米軍施設を次々と爆破しながら、犯行声明すら出さない。警察からはノーマークだった者たちが起こした神出鬼没な事件。彼らは〝謎の集団〟とも呼ばれた。
1971年12月25日、黒ヘルグループは、東京・新宿伊勢丹百貨店前の追分派出所にクリスマスツリーに偽装した爆弾を設置。爆破によって警官1人が重傷、通行人6人が重軽傷を負う事件を起こす。主犯として指名手配されたのは、鎌田俊彦さんで8年余の逃亡の末、80年3月に逮捕され、00年に無期懲役が確定する。梶原亜貴さんはそれ以後も鎌田さんと面会や文通を続けている。
――父親の譲二さんの同志だった鎌田さんと面会や手紙のやり取りを始めたきっかけは何だったんですか。
グループの中で、父が最後に逮捕されたんですね。私の中学進学を目前にした、85年12月に自首しました。鎌田さんら他のメンバーの逮捕から5年後のことでした。裁判を傍聴する時、手錠をかけられ両脇を抱えられるようにして入退廷する父の姿を見るのが、本当に嫌でした。
小菅の東京拘置所に行く時は、父だけでなく鎌田さんにも手紙と差し入れをしていました。当時はまだ中学生で事件のことはよく理解できていませんでしたが、やはりかわいそうだと思ったんです。父は懲役6年の刑で静岡刑務所へ。他のメンバーも順次、刑期を終えて出獄してきました。けれども、鎌田さんはただ一人、長期間にわたって囚われの身になっていましたから。弟の鎌田克己さん(懲役6年で87年出所)とともに何度も面会に行きました。
黒ヘルグループは時限爆弾を製造したが、人を殺傷することを目的としなかった。事前に予告電話を入れたり、ひとけのない時間帯に爆弾をセットしたりしていた。実際に、梶原譲二さんらが関わった他の事件、東京・渋谷の清水橋派出所や宮城県の米軍通信施設などの爆破でケガ人は出ていない。
クリスマスツリー爆弾事件の時も、事前に朝日新聞の新宿分室を選んで予告電話を入れていた。ところが、電話を受けたデスクは「いたずら電話」として片づけ、警察へ通報せずに握り潰してしまったのである。
●受刑者への思い
――現在も鎌田さんと交流を続けている理由は?
やはり不当な長期刑に異議を申し立てたい気持ちがあるからです。このグループが起こした爆弾事件で死者は出ていません。クリスマスツリー爆弾事件では、一人の巡査部長が右目と左足を失い、通行人が重軽傷を負っていますが、それに対する罰はもう十分に受けているのではないかと思っています。爆弾を仕掛けて人にケガをさせることはどんな理由があろうと許されることではありませんが、それにしても長過ぎると思います。鎌田さんは逮捕からすでに45年も経過しています。
殺人を犯して無期懲役になった人でも、だいたい30年を超えると仮釈放の対象になります。鎌田さんはずっと模範囚として過ごしてきたし、もう80歳を超えていますから再犯の恐れもないはずです。これまでも何回か、仮釈放を検討するための面接が行われたそうです。鎌田さんはそのたびに手紙をくれて「今度はもしかしたらいけるかもしれない』と希望を抱くのですが、いつも期待外れに終わっています。
――刑務所では、自由を拘束する以上の刑罰が与えられているように思います。
受刑者たちの居室にエアコンがないのはひどいと思う。今年の酷暑は災害的といわれましたが、鎌田さんからの手紙が支離滅裂になっていたり、最後のほうが「暑い、暑い」とばかり書いてあって、相当やばい状況ではないかと心配になりました。刑務所は現在、高齢者がすごく増えており、命にかかわる問題になると懸念しています。
仮釈放が望めない「マル特無期」という不文律があり、それは下級審の死刑判決が減刑されて、最終的に無期懲役が確定したケースに限られる。もう一つは、公安事件で無期懲役判決を受けた事例で仮釈放が認められることはあるのか、という疑問である。
映画『桐島です』にも登場する「東アジア反日武装戦線〝さそり〟」の黒川芳正さんも自ら関わった事件では死者を出していないが、無期懲役刑を受けて宮城刑務所に服役中だ。連合赤軍のメンバーだった吉野雅邦さんも山岳ベース事件で無期懲役となり、千葉刑務所に下獄。日本赤軍に参加した和光晴生さんは米大使館を占拠したクアラルンプール事件なで無期懲役となり、徳島刑務所に服役後、23年に大阪医療刑務所で獄死している。
梶原さんが指摘するように、こうした矯正行政の恣意的な運用も見直されるべきだろう。ただ、最近になって獄中からうれしい知らせがもたらされたという。
『爆弾犯の娘』の広告が読売新聞に掲載されて、その紹介文に「クリスマスツリー事件」という言葉が入っていたんです。それを受刑者の何人かが気づいて「これ、鎌田さんに関係のある本じゃないの』って聞いてきたそうです。鎌田さんは「そうそう。メンバーの娘さんが書いた本なんだよ」と答えたら、6冊売れたって手紙で教えてくれました。
――差し入れで刑務所に本が入ったんですね。
そう。で、そのお一人から、出版社に手紙が届きました。「いままで自分は人を騙したり嘘をついたりして生きてきたけど、この本を読んで人生の考え方が変わった」ととても丁寧な字で書かれていました。たぶん同じくらいの歳の男性だと思う。「梶原さんはこんなに大変な暮らしをしていたのに、いまは立派になられて。それにひきかえ僕は」って。
手紙を読んだ担当編集の小宮亜里さんがいたく感動して「受刑者の更生に役立つのなら、ぜひ慰問に行きましょう」と言い出した。刑務所長宛に慰問を申し込む手紙を書いたそうですが……認められるわけがないだろ(笑)。まだ父の共犯(鎌田さん)が入っているし、黒川さんもいるのに。でも、本当に慰問に行けたらいいなと思っています。手紙をくれた人は「本はあまり読んだことがない」と書いていましたが、読破して感想文まで送ってくれたのですから本当にうれしかった。
05年、刑務所は大きな転機を迎える。100年ぶりに監獄法が改正され、翌06年5月から受刑者処遇法(現在の略称は、刑事収容施設法)が施行された。それまで刑が確定した既決囚は、面会や手紙のやり取りなど外部との交通権は原則として親族と弁護士に限られていた。それが友人にまで広げられることになったのだ。梶原さんも未決の時以来、鎌田さんと会えるようになったし、私も取材で面会することができた。
ところが、改正監獄法の附則にある「5年後の制度見直し」のタイミングで、再び門戸が狭められた。刑務所側の裁量によって、実際の運用面でいったん認められた面会が再びできなくなる人が続出したのである。
梶原さんも、やはり鎌田さんと会えなくなった。その時の経緯を問うと「よくぞ聞いてくれた。実は本から割愛したエピソードがあるんです」と目を輝かせ、こんな話を披歴してくれた。
鎌田さんと面会するために、いつものように待合室で順番待ちしていたんです。すると2人の刑務官がやって来て、「ちょっと』と廊下に出るよう促されました。「何で行かなきゃいけないの?』って聞いたら、廊下でいきなり壁ドンされました。私の態度が「反抗的だったから」というのです。
――刑務官がそんな対応したんですか。梶原さんは受刑者ではないのに。
もう、びっくりして。これがキラキラ映画のイケメン刑務官だったらそこで恋が芽生える場面かもしれないけど、おじさん2人に壁ドンされて「きょうは面会できない」と一方的に通告されたんです。
あまりにも高圧的だったので、私もつい頭に来て「何でだよ? こっちは東京から新幹線で来ているのに往復でいくらかかると思っているの? お宅ら払えんのかよ」と荒っぽい口調で畳みかけました。「所長を呼んでこい!」「面会できないって法務省のホームページのどこに書いてあるの?」などと揉めていたら、大きな犬の絵が入ったジャージを着た若い衆を先頭に、待合室にいた人たちが「どうした、どうした」とドヤドヤ集まってきました。
私は「この人たち(刑務官)に呼ばれていきなり壁ドンされたんです」と伝えたら、「こんな下っ端なんか相手にしてないであっちに行きましょう。ウチの親分もいますから」と喫煙所に案内されました。「姐さん、どこから来たんですか」って聞かれたから、「渋谷区」と答えたら、「あっ、渋谷の〇〇親分さんにはいつもお世話になっています」って、いつの間にか勝手に勘違いされていた(笑)。

――当日、面会を断るなんてひどい話ですね。
その日、面会が認められなかった人が何人もいました。喫煙所に行くと、ヤクザがいっぱいいてみんな怒っていた。だるまストーブを囲みながら「俺たちもきょう面会できなくて……。これはおかしい」「腹が立つからどうしてやろうか」などと、口々に不満を言い合っていました。このまま黙って引き下がるわけにはいかないから「所長室にカチコミに行こう』ということになりました。
「私は姐さんじゃありません』と言うタイミングを逸したまま所長室までついて行くと、ヤクザたちが「おらっ、出て来い』などと怒鳴りながら、鉄製の扉をガンガン蹴り始めた。一通りやり終えると、「さあ、姐さんもどうぞ」と言って、モーゼの十戒のごとく所長室の扉までの通路が開かれました。みなさんに見守られる中、私も扉の前まで行きましたが、結局、刑務所側は私たちの抗議に答えようとしませんでした。
黒ヘルグループが特異だったのは、演劇に関わるメンバーが多かったことだ。梶原譲二さんは演劇人による反戦運動「新演劇人反戦グループ」の一員であり、演出家の蜷川幸雄や俳優の石橋蓮司が旗揚げした劇団「現代人劇場」にも属していた。71年のクリスマスツリー爆弾事件の直前に、緑魔子主演の『鴉(からす)よ、おれたちは弾丸をこめる』(作・清水邦夫)で準主役に抜擢された。そればかりか、警視庁推薦のテレビドラマ『特別機動捜査隊』にも出演していたから、逮捕時に警察は激怒していたらしい。
●石橋蓮司も宮城刑務所へ面会に
――石橋蓮司さんも拘置所や刑務所を訪れ、譲二さんや鎌田さんと面会したこともあったそうですね。
拘置所や刑務所に一緒に行きました。待合室に入ると、一見してヤクザとわかる人たちが、いっせいに立ち上がって「ご苦労さまです!」って言ったの。みんな単純だな、映画とリアルの区別もつかないのかと思ったんですが、蓮司さんも親分役のイメージそのままに「おう」って返していました(笑)。父は劇団で蓮司さんの直属の後輩でしたが、鎌田さんとも新宿の喫茶店「ローレル」などで会ったことがあるそうです。
父が逮捕される前に出演した舞台『鴉(からす)よ、おれたちは弾丸(たま)をこめる』(原作:清水邦夫 1974年)は、爆弾を投げて裁判にかけられた青年2人を、おばあさんたちが武器を持って救出しようとするストーリーです。1999年に出版された『連合赤軍・〝狼〟たちの時代』(毎日新聞社)のインタビューで、蓮司さんは当時、劇団に関わる人たちの状況がラディカルな方向へ行ってしまいがちだったとしてこう話しているのが象徴的でした。
「もう芝居をやるより、実際にやるしかない」という感じになり、周りにそういう仲間が増えてくると、演劇とある意味での闘争という表現の分かれ目がわからなくなってくる人間も、中にはいるわけです。
――著書の中で、父親の譲二さんが裁判の冒頭陳述で「めまぐるしい激動の日々、冷静に自らを問うことなく疾走し、時代の傍観者となることなく、安全地帯からではない行動を考えていた」と語ったのが印象に残りました。
冒頭陳述の時は、法廷が劇場みたいな感じになっていました。母は泣いていましたが、私は父のことを「真面目な人」だなと同情したのを覚えています。後年になって、現実社会と物語について考えるようになりました。芝居は異世界に連れて行ってくれるのと同時に、現実をも飛び越えてしまうことがある。芝居をつくる側は、その危うさを常に認識していなければならないと感じています。
クリスマスツリー爆弾事件以降、警察の取り締まりがいっそう強化される。また、連合赤軍事件もあって左翼運動は急速に衰退していった。だが、74年8月、ノンセクトのグループ「東アジア反日武装戦線〝狼〟」の手によって三菱重工爆破事件が発生する。東京・丸の内の三菱重工本社前に仕掛けた時限爆弾で通行人8人が死亡、385人が重軽傷を負う大惨事となった。
〝狼〟に共鳴し、〝大地の牙〟〝さそり〟を名乗るグループも登場。戦後の日本企業によるアジアへの経済侵略や、中国人など外国人を強制労働に従事させた過去の〝罪〟にも目を向け、ゼネコンや大手商社などを標的に爆弾闘争を再び激化させていった。
映画『桐島です』の主人公、桐島聡さんは黒川芳正さん、宇賀神寿一さんとともに「さそり」を名乗って反日武装戦線に参加。連続企業爆破事件で指名手配され、逃亡する。偽名を使って49年間にわたって潜伏していたが、24年1月、末期がんで入院中に本名を告白して亡くなる。
●「桐島聡」について
桐島さんには、ものすごくシンパシーを感じていました。桐島さんの指名手配写真の隣に父の写真が貼ってあったからです。長谷川和彦監督の「太陽を盗んだ男」(1979)の中で、菅原文太が沢田研二を追走する場面がありますが、歌舞伎町の交番が大写しになって、そこに桐島聡と梶原譲二が並んで映っていました。2人ともグループでは末端の若いメンバーで、あまりに純粋だったために爆弾事件を起こすことになったのではないかと考えました。報道があって資料を収集していたところに、高橋伴明監督から脚本を書くように言われたのです。
桐島さんが名乗り出た時、メディアは桐島さんが関わっていない三菱重工爆破事件の映像をくり返し流して世論をミスリードしました。彼が関与したとされる事件では、死者は出ていません。爆弾犯というと極悪人のように思われてしまいますが、桐島さんは50年近い逃亡生活の中で周囲の人たちと優しく接して、仕事や通っていたバーの仲間たちからも慕われていました。
いま外国人に対するヘイトスピーチがひどい状態ですが、桐島さんならばどう反応しただろうかと考えて、映画にクルド人と在日コリアンの役を登場させています。
ただ、私がどうしても理解できないのは、桐島さんたち「さそり」が三菱重工爆破事件以降に活動を開始したことです。あの凄惨な光景を目にして彼ら自身、激しく動揺しています。にもかかわらず、その後も過激な行動へと突き進んでしまった。その疑問について誰も納得のいく答えを出していないし、私たち自身、これからも問い続けていく必要があると思っています。
梶原さんの著書や映画『桐島です』に触れ、思い起こした言葉がある。
東アジア反日武装戦線の一斉逮捕から15年目の90年、東京・渋谷で「東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議」主催の集会が開かれたので、私は会場に出掛けた。
支援者や弁護士、文化人が登壇してメッセージを読み上げたが、その中で〝狼〟をモデルにした小説『パルチザン伝説』で知られる作家、桐山襲(かさね)の「過去を豊富化する」という発言が強く印象に残った。過去を単なる栄養にしてはダメで、今あるわれわれの歩いていく道が照らし出されるように過去を豊富化する作業がなされなければならない、と説いたのだ。
〈アジア人民の歴史的な憎悪と怨念は私たち日帝本国人に……〉と、〝狼〟のスローガンを読み上げたうえで、「ここで彼らが言った言葉を、もっと豊かな、もっと違う、もっとわれわれが本当にそうなのだと思えるような言葉に、10年20年たったあとで豊富化していく作業こそが必要なのではないか」と提起したのだ。桐山襲は主に天皇制の問題やアジアとの関わりについて語ったのだが、この話はもっと広義に私たちの日常の生活に根差した形で受け止めることができると思う(集会の内容は、軌跡社刊『反日思想を考える』にまとめられている)。
桐島さんが亡くなった後、同じ〝さそり〟のメンバーだった宇賀神さんは機関紙『救援』に追悼文「優しさを組織せよ」を書いた。その一文を読んだ梶原さんは「これだ!」と思ったそうだ。その追悼文に触発されたと思われるメッセージが『爆弾犯の娘』の〈あとがき〉に記されているので、引用したい。そこには先の桐山襲の問いに対する、現代的な回答の糸口があるように思えるからだ。

この本で伝えたいのは「どんな環境に生まれても、努力次第で人生は切り拓ける」ということでは断じてありません。
いくら努力しても報われないことはたくさんあるし、生まれてくる環境は選べません。どうにもならない時はあまり無理をしないで、必要な時は誰かに「助けて」と言いましょう。
うまくいかないことを全部「自分のせい」だと思わずに、適度に親のせいにしたり、他人のせいにしたり、社会のせいにして生きていきましょう。そして自分に余裕ができた時には、その社会全体をみんなで変えていきましょう。やさしさを組織していきましょう。
このメッセージは、親の貧困に喘ぐ子どもや、いまならば「宗教2世」のような人々にとって救いになるだろう。「努力すれば報われる」というのは危険な考え方で、必ずしもそうはいかないから「自己責任」という言葉では片づけられないし、セーフティーネットが必要なのだ。

梶原さんがこう付け加える。
「流行語大賞にもなった高市総理の「働いて働いて働いて働いて働いてまいります」は本当に怖い言葉だと思います。働きたくても働けない人もたくさんいるし、そもそも働き過ぎで亡くなった方もたくさんいるのに、何を考えているのかと。人間を「生産性」で測るような言葉を発したことだけでも大問題なのに、よりによってそれを「流行語大賞」にしてしまう今の流れに、とことん抗っていきたいです。私の今年の流行語大賞は「上等上等上等博覧会」です!」
いま社会を見渡すとぶっ壊したいものはたくさんあるが、多くの人がそう感じているように、どれも爆弾では物理的に壊せないものばかりだ。梶原さんはこれからも映画を武器に、さまざまな社会矛盾と格闘し続けていくにちがいない。今後の作品にも要注目である。(インタビュー・文@亀井洋志)
※東京・早稲田松竹で12月14日、16日、18日に『夜明けまでバス停で』『桐島です』2本立て上映される。18日最終回の『桐島です』上映後に、梶原さんが舞台挨拶をする。
●プロフィール
かじわら・あき 1973年、東京生まれ。90年、映画『櫻の園』(中原俊監督)で俳優としてデビュー。主な出演作に、大林晴彦監督『青春デンデケデケデケ』、七里圭監督『のんきな姉さん』、タナダユキ監督『ふがいない僕は空を見た』など。07年、『名探偵コナン』で脚本家デビュー。22年、高橋伴明監督『夜明けまでバス停で』でキネマ旬報日本映画脚本賞を受賞。25年、再び高橋監督とのコンビで脚本を担当した『桐島です』が公開。著書に『爆弾犯の娘』(ブックマン社)
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