河﨑秋子が書く家族の歴史〜『父が牛飼いになった理由』
「うちの父 阪神ファンで 胃が痛い」
この川柳の作者は、小学生時代の河﨑秋子氏である。最初は「胃潰瘍」と書いたのを、先生の提案で「胃が痛い」に書き換えて北海道新聞に投稿し、見事掲載されたのだそうだ。辛辣かつユーモラスなこの一句に、この新書の面白さが詰め込まれている……ような気がするので、最初に紹介させていただいた。
河﨑氏といえば北海道である。臨場感あふれる表現で、野生の動物たちや厳しい自然を描く作家だ。実家が酪農家で、自身は羊飼いをしていたということは、直木賞受賞時のインタビューなどで知った方も多いのではないだろうか。北海道で酪農をしていたお父上が熱心な阪神ファンなのは、大阪で育ったからなのだそうだ。そこからなぜ北海道で酪農家になったのか。その理由や家族のルーツを、直木賞作家で元羊飼いの娘が調べていくという内容である。私がこの本を読もうと思った理由は、河﨑さんの小説と乳製品が大好きだから、みたいな単純な理由だ。神奈川県の団地で育った私とは、家族の歴史に被ることがほとんどないだろうと思って読み始めたのだが、予想外に記憶を刺激されるノンフィクションだった。
河﨑さんと私には、共通点がある。それは、父親が満州生まれということだ。薬剤師だった著者の祖父は戦地に行くことなく、終戦後に体の弱かった著者の父を含む四人の子供たちを連れて一家で帰国したとのことだ。職業上の理由で戦地に行かず、家族で満州から帰国した祖父母と父に重ねずにはいられない。
「もっと辛い思いをした人は、何千何万人といるだろう。それでも、彼女が抱えた苦労や記憶は、彼女だけのものだ。……幸運と不幸の度合いは後の世の人間が簡単に測れるものではない。語られたことの向こうに、きっと渦を巻き続けている。もしかしたら祖母も、祖父も、自分の中に黒い渦を持っていた。」
その「黒い渦」は、私の祖父母の中にもあった。一緒に引き揚げという経験をしていても、心の中にある思いは同じではないのだな、と子供ながらに感じたこともある。話しておきたい気持ちと、思い出したくない気持ちの両方があることがわかっていたから、こちらから積極的に聞き出すことはできなかった。二人とも他界してしまった今、もっと聞いておくべきだったのではないかと思うことがある。そんな気持ちを、まさかこの新書で思い出すことになるとは……。
その後、著者の父は高校まで大阪で暮らし、兄弟揃って北海道で酪農家として生活することになる。どうしてそうなったのかということや、現在の状況については、ぜひ本書を読んでいただきたい。連続ドラマになってもおかしくない河﨑家の物語に、グイッと引き込まれるだろう。もちろん、酪農という仕事の奥深さにも触れることができる。著者の小説の中にある河﨑家の人々の影響を受けたと思われる題材にも気づいて、もう一度過去作品を読み直したい気持ちになった。思わずニヤリとしてしまうユーモアあふれる文章も魅力的だ。ぜひ肩の力を抜いて読んでいただきたいと思う。
家族の歴史って、それがどんなに個人的なものであっても、教科書やニュースに出てくるさまざまな出来事と繋がっている。時代に翻弄されずに生きられる人はいないのだと、改めて思う。
「自分が立っている足の裏に、長く固い根が生えていたことを、ようやく知覚できた」
最終章に書かれていたこの言葉が、心に残った。たくさんの人の悲しみと喜びがあって時が進み、挫折や苦労や努力や成功が積み重なった上に私も存在するのだということを、著者の経験を通して自覚させられる貴重な一冊だった。

- ガジェット通信編集部への情報提供はこちら
- 記事内の筆者見解は明示のない限りガジェット通信を代表するものではありません。