村田沙耶香『世界99』の沼に溺れろ!
どんなに忙しくても食事だけはちゃんとしたい人間なのだが、昼ごはんを忘れ、夕食も食べ損ねるところだった。村田沙耶香氏『世界99』に夢中になっているのは、もちろん私だけではない。3月初旬の発売以来かなりのスピード感で売れており、早速重版もかかっている。
とはいえ、読んでみたいけど分厚くて重いし、上下両方買うと5000円近くするし、今は忙しいし……とためらっている方もいることだろう。そういう人たちは皆、著者が造成した深くて得体の知れない人工沼の淵に立っているのだと思う。
飛び込むしかないのではないか? 往生際の悪いその背中を、後ろからドスッと突き飛ばしたい。あらゆるものが漂い沈んでいるこの沼で、みんな溺れてしまえ。
如月空子には、性格がない。喜怒哀楽の感情もわからず、強いていえば「安全」と「楽ちん」を好んでいる。目の前にいる相手や誰かのことを「トレース」してコミュニティに溶け込み、危険を回避する技を、幼い頃から使ってきた。そんな空子の10歳から晩年までを、社会の急激な変化とともに描いた物語である。
空子は、清潔で公平なクリーン・タウンという名の街に住んでいる。家族は単身赴任中の父と全ての家事を担う母、そして「ピョコルン」である。ピョコルンとは、甘い声で鳴く白いふわふわの毛が生えた高価なペットだ。「強制的にかわいい」その生き物を父の提案で飼うことになったのだが、内心では邪魔だと空子も母も思っている。
過去や出自にとらわれないはずのクリーン・タウンにも、差別がある。「ラロロリンDNA」を持つラロロリン人たちは、優秀さゆえに就職などで優遇されている。なんとなく妬まれてはいたのだが、ある事件をきっかけに、人々は彼らに対する悪意を隠さなくなった。空子の通う中学でも、凄まじい嫌がらせが行われている。
そして、女性の置かれている状況は昭和レベルだ。諦めたように夫や義父母の言うなりに働いている母を、空子も道具のように利用している。若さとかわいさを求めてくる男たちに対しては、忌避したり抵抗するという考えはない。媚びる方が安全だと思っているのだ。
空子が大人になると、ピョコルンはただのかわいいペットではなく、人間の性処理や代理出産を担う能力を持つ生物に進化している。高待遇の仕事に就いたラロロリン人と結婚し、ピョコルンのエステサロンで働いている空子は、3つの世界を生きている。世界①は、中学時代の人間関係の延長にあり、地元の庶民的な価格の居酒屋が集合場所だ。世界②では、サロンのマネージャーとして、流行に詳しいキラキラした人々とのホームパーティーや高価格のランチを楽しむ。世界③は、子どもの頃から正義感が強く浮いていた同級生・白藤さんから繋がったコミュニティで、正しく生きようとする人々と一緒に、歴史や環境問題について考えている。
どの世界の人々も、信じたいものを信じ、見たくないものは見ない。自分と他人のどちらが優れているか、どうすれば得をするのか、何が正しいのか、誰が仲間なのかを決めたがり、他人の痛みには鈍感だ。外側から見ると奇妙としか思えないことに固執し、自分たちの滑稽さや醜悪さには気づかない。これって、ピョコルンとかラロロリン人とかがいないだけで、そのまま私たちの生きている現実ではないか。
どこにでも順応するが、どこにも気持ちを寄せることをしない空子は、それぞれの世界で起こることに対してフラットな視線を向ける。その表現は、私がなかったことにしてきた過去や、気づかないふりをしている問題を剥き出しにしてくる。当たり前だと思ってきたことも、正しいと信じてきたことも、容赦ない揺さぶりに耐えられずボロボロと崩れてくるようだ。
ここまで追い詰めても、物語はまだ私を解放してくれなかった。隠されていたピョコルンの秘密が明らかになり、社会は大きく変貌していく。
そこは、私たちが生きる未来に似ているのだろうか。空子の選んだ最終地点を、どうかご自身で見届けてほしい。
(高頭佐和子)

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