「聞いて極楽見て地獄」とはどんな意味?その類義語は?「百聞は一見にしかず」とは別物?
「聞いて極楽見て地獄」は聞くのと見るのとでは大違いであることを意味することわざとなっています。
しかし、具体的にはどのような状況を意味するのでしょうか。
ここでは「聞いて極楽見て地獄」がどのような言葉なのかを解説します。
「聞いて極楽見て地獄」とは
ここでは「聞いて極楽見て地獄」の意味を解説します。
「聞いて極楽見て地獄」の意味
「聞いて極楽見て地獄」は話に聞くのと目で見るのとではまったく異なっていることを例えた言葉です。
人づてに聞いただけだと期待が膨らむこともあるでしょう。
しかし、実際に見てみると幻滅するということも珍しくありません。
それを「極楽」と「地獄」という言葉で表現したのが「聞いて極楽見て地獄」となります。
「聞いて極楽見て地獄」の用い方・例文
「聞いて極楽見て地獄」は自分の目で見たことで、それまで聞かされていたことがとんでもない間違いだったという場合に使用します。
・例文1:あの会社はアットホームな職場と聞いていたものの実際に入ってみると相当なブラック企業だった。まさに聞いて極楽見て地獄だ。
・例文2:日本一の絶景があると聞かされてやってきたが、目の前に広がっていたのはどこにでもある風景だった。これぞ聞いて極楽見て地獄である。
・例文3:田舎暮らしはのんびりスローライフが楽しめると聞いて移住を決意したが、実際に住んでみたら大変なことばかり……聞いて極楽見て地獄だった。
このように「聞いて極楽見て地獄」は聞かされていた話と全然違うような場面で使用するのが一般的です。
用意するに期待を裏切られたような場面で使用する言葉となります。
現代風に例えると「このYouTuberめちゃくちゃ面白いから動画見てみて」と聞いて期待していたものの、実際に見てみたら「あまり面白くなかった」というような状況を指します。
「百聞は一見に如かず」との違い
ここからは「百聞は一見に如かず」との違いを解説します。
「百聞は一見に如かず」とは
「百聞は一見に如かず」は他人から何度も聞くより、一度自分の目で見た方が確かであるということを表現した言葉です。
「百聞」は何度も聞くことを意味します。
「一見」は一度見ることを意味します。
実際に人から聞いた情報だけでは何が正しいのかわかりません。
逆に自分の目で見ることによって事実がわかるのではないでしょうか。
つまり「百聞は一見に如かず」は人に聞くよりも自分で見た方が確実であることを意味する表現となります。
「聞いて極楽見て地獄」と「百聞は一見に如かず」の違い
「聞いて極楽見て地獄」と「百聞は一見に如かず」は似ています。
ただし「聞いて極楽見て地獄」は人から聞いて期待していたにもかかわらず、自分の目で見てみると幻滅した状況を表現した言葉です。
対して「百聞は一見に如かず」は人から聞くよりも自分の目で見た方が確かであることを表現した言葉です。
「聞いて極楽見て地獄」は期待を裏切られた場合に使用し、「百聞は一見に如かず」は自分の目で確かめることを指して使用します。
その点が両者の相違点となるでしょう。
「聞いて極楽見て地獄」の類義語
ここからは「聞いて極楽見て地獄」の類義語を紹介します。
聞いて千金見て一文
「聞いて千金見て一文」は話に聞くのと目で見るのとでは大きな相違があることを意味する表現です。
「千金」とは、たくさんのお金を意味する言葉となります。
「一文」とは、わずかなお金を意味する言葉となります。
つまり「聞いて千金見て一文」は大金(大きな価値)があると聞いていたのに実際には小金(小さな価値)しかなかったような状況を指して使用する言葉です。
その点が「聞いて極楽見て地獄」と同じ意味となります。
字面も非常に似ている言葉なので、併せて覚えておきましょう。
三条室町聞いて極楽見て地獄
「三条室町聞いて極楽見て地獄」も話に聞くのと目で見るのとでは変わってくるということを意味する言葉となります。
そもそもこの言葉には「聞いて極楽見て地獄」という言葉が含まれており、そこに「三条室町」がくっついている形となっています。
三条室町とは京都にある町で、かつては東海道の西の拠点として発展した町だったそうです。
現に三条室町に店を構えるのは京都の商人にとっての誇りであり、当時は大規模な呉服屋や問屋、旅館などが軒を連ねていたとされています。
しかし、三条室町は華やかな発展の噂が広まっていたものの、実際の呉服屋や問屋などは生活も厳しく質素で慎ましかったとされています。
転じて、「三条室町聞いて極楽見て地獄」と表現するようになったのだとか。
まとめ
「聞いて極楽見て地獄」は話に聞くのと目で見るのとではまったく異なっていることを例えた言葉です。
よく似た言葉に「百聞は一見に如かず」があります。
ただし「百聞は一見に如かず」は他人から何度も聞くより、一度自分の目で見た方が確かであるということを表現した言葉です。
そのため、両者は微妙に意味合いの異なる言葉です。
その違いを理解して使い分ければ、より用いやすくなるのではないでしょうか。
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