牧歌的な雰囲気とナイーヴな対話〜ベッキー・チェンバーズ『ロボットとわたしの不思議な旅』
ベッキー・チェンバーズは、2015年にスペースオペラ長篇『銀河核へ』で商業デビュー(邦訳は創元SF文庫)。この作品はアーサー・C・クラーク賞の候補になり、シリーズ化もされた。本書は、それとはずいぶん趣が異なり、人間とロボットとの風変わりな交流を描いている。
第一部「緑のロボットへの賛歌」は、本国アメリカでは独立した一冊本として刊行され、2022年のヒューゴー賞ノヴェラ部門を受賞。第二部「はにかみ屋の樹冠(じゅかん)への祈り」も、やはり独立した一冊本で、2023年のローカス賞ノヴェラ部門を受賞している(ヒューゴー賞候補は辞退)。
舞台となるのは、惑星モタンの衛星パンガである。大陸の半分が人間の居住区域で、それ以外の半分は手つかずの自然が残されている。パンガでは地球と異なり、調和や均衡こそが尊ばれ、むやみな開発をおこなわないのだ。過去に工業的な産業、資本主義が台頭した時代もあったが、人びとは目先の利益追求を捨て、持続可能な社会運営を選択したのである。〈移行〉と呼ばれるパラダイムシフトだった。
このとき労働用につくられたロボットたちは、自分たちの意志で人間社会を離れ、大自然のなかへと姿を消した。ちなみに、ロボットが意識を持つことは、神学的にも生態学的にも実在論的にも議論があるが、いっこうに決着がつかない問題だ。
「緑のロボットへの賛歌」は、主人公のデックスが修道僧を辞めて、村々をまわって喫茶奉仕をおこなうところからはじまる。その先で出逢ったのが、ロボットのモスキャップである。人間とロボットが別々の道を歩むようになって長い歳月が経っており、どちらにとっても、これは新しい遭遇だった。
大自然のなかで暮らすようになったロボットは、身体の修理が追いつかなくなると、そこで寿命が終わる。そして、使える部品は別なロボットへ流用する。新造されたロボットには、元の部品を提供したロボットとは、まったく違う意識が発生する。モスキャップもそうやって誕生した、いわば野生のロボットである。
最初のうちデックスは、モスキャップを適当にあしらって斥けようとするが、やたらとおしゃべりで物怖じしないモスキャップにつきまとわれ、一緒に旅をすることになる。モスキャップは言う。「ワタシは次の問いの答えを得るために、ここに送られたのです。人間は何を必要としているのか?」
じつは、デックスも自分が何を必要としているのかを、心のなかで模索しつづけていることが、物語を通じて明らかになっていく。
「緑のロボットへの賛歌」では、デックスとモスキャップとの対話(ダイアローグ)と紀行(トラヴェローグ)を中心として、哲学的テーマが浮き彫りになる。それに対し、「はにかみ屋の樹冠への祈り」では、デックスとモスキャップが別な人間たちとかかわっていく。
大変革である〈移行〉後、人びとが選んだライフスタイルは一様ではない。自然との共存、持続可能な文明という点で合意していても、共同体のありかたや信条や価値観はさまざまである。共同体外の人間(デックス)や、人工物であるロボット(モスキャップ)に対しての反応もさまざまだ。そうしたやりとりを通じ、デックスとモスキャップは思索を深めていく。
作品を通じて繰りひろげられる哲学的問答は、そこだけ切りだせばいささかナイーヴにも思える。しかし、内省的なデックス、無垢なモスキャップというキャタクターが、そのナイーヴさとしっくりマッチしており、読者の感情へまっすぐ響いてくる。また、〈移行〉後のパンガには牧歌的な雰囲気があって、『中継ステーション』や『都市』のクリフォード・D・シマックを思いだした。
(牧眞司)
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