滅法おもしろい家族サバイバル小説〜永嶋恵美『檜垣澤家の炎上』

滅法おもしろい家族サバイバル小説〜永嶋恵美『檜垣澤家の炎上』

 確かに長大、しかしするする読めて滅法おもしろい。

 永嶋恵美『檜垣澤家の炎上』(新潮文庫)が8月頭にでん、と出て1月が経った。今年は大長篇の当たり年で、京極夏彦『了巷説百物語』(KADOKAWA)が出たかと思えば、翻訳でマット・ラフ『魂に秩序を』(新潮文庫)、さらに版型そのものが大きい奥泉光『虚史のリズム』(集英社)と千ページ超えの作品が相次いでいる。それに比べれば軽い軽い、だって八百ページないんだもの。いや、十分に厚いのだけど。

 厚い厚い、と不安を煽るようなことを書いたが心配はご無用である。大正年間の横浜を主舞台とするこの作品は、読者に優しい親切設計になっているからだ。主人公の高木かな子は、登場したときは学齢に達しない少女であった。母親である高木ひさが亡くなった後、彼女は横浜きっての素封家である檜垣澤家に引き取られた。かな子は、当主である要吉が妾のひさに産ませた子だったのだ。幸いだったのは、継子よ、と女中勤めをさせられることも覚悟していたのに、外聞をはばかったか要吉の妻・スエが居候のような扱いで引き取ってくれたことであった。死の床に就いた要吉をかな子は看病して暮らした。だがその父が亡くなってしまい、家の中でかな子は孤立してしまう。

 ここまでがだいたい30ページくらいか。基本的な人間関係がざざざと書かれるので、ちょっとだけ注意して読んだほうがいい。だが、すぐに目が覚めるような事件が起きる。家の中で小火が起きる。そして火災現場から死体が発見されるのである。スエの子で、長女の花の婿養子である辰市だ。この殺人事件が発覚したところで序章は終わる。38ページ、早い。

 ここから話が本格的に始まる。その第一章の冒頭には「檜垣澤の家に男は要らない」という一文が置かれている。誰が言い出したか、家の姿を的確に表した言葉である。完全な女系家族なのだ。スエの長女・花には妹・初がいて、医師の山名研祐に嫁いでいる。花には三人の娘・郁乃、珠代、雪江がある。郁乃は母と同じく惣次という婿を取った。辰市が非業の死を遂げたために家の差配をするのは花の役割になったが、本当の権力者は「山手の刀自」ことスエである。このスエが檜垣澤家のすべてを決めている。

 そうした環境の中でかな子は成長していくのである。檜垣澤の人々に虐待されるようなことはない。そこは育ちがよくて、鷹揚なのだ。しかし使用人たちからは白眼視されるし、いつ放逐されても文句を言えない弱い立場のため、一つ物を言ったり、行動をしたりするだけでもよく考えてから事を起こさないとならない厄介さがある。かな子は幼いながらに知恵をつける。檜垣澤の三姉妹に気に入られなければならない。可愛がられそうな言動で自分を装って、姉妹に取り入ることからまず始めるのである。少しでも間違えれば危険が迫る。少しも油断がならない状況の中で、かな子はどんどん賢さを増していくのである。

 緊張感に満ちた物語だ。家族サバイバル小説、とでも言えばいいのだろうか。閉じられた世界で生き残るために、必死の闘いを少女は続ける。やがて時が経ってかな子を巡る環境は変化し、彼女は本来異母姉である花の養女となる。檜垣澤の姓を与えられたのだ。女学校にも引き続き通わせてもらってまずは安泰に見えるが、まだまだ苦難は続く。見合いをして縁談がまとまれば、かな子はどこかの家に嫁がなければならない。檜垣澤の家がそう決めたら、断ることはできないのだ。大正の女は、男性に比べると不公平な立場にあった。なんとかして教育を修め、一本立ちして檜垣澤家の影響から逃れたいかな子は、必死に権謀術数を巡らせていく。旧時代のジェンダー不平等を当事者である視点から描き出した、見事な女性小説にもなっている。

 何より美しいのは風物の描写で、帯に「『細雪』×『華麗なる一族』×殺人事件」という惹句が記されているが、大谷崎の絢爛さは当然意識したであろう。1920年代の横浜文化への言及も楽しく、かな子の目からいきいきと当時の様子が描き出されていく。ディテールの豊かさがこの小説の価値だ。無二の親友となる東泉院暁子との関わりの中で、当時の女学生文化についても言及され、彼女たちの心象風景が鮮やかに再現される。

 ここまでミステリー以外の要素について主として触れてきたが、もちろん忘れてはならないのが、序章で描かれる檜垣澤辰市殺人事件の謎である。突如一員に加えられたよそものであるかな子は、檜垣澤家の奇妙な点について少しずつ見聞きし、理解していく。それらが上に書いたような分厚い描写の中に織り込まれていくわけである。殺人事件の真相を示唆する手がかりも、きちんと与えられる。何が起きているのか、何があったのか。それがわかったときに壮絶なクライマックスが訪れるのである。周到に準備をして作者は家を描き、一大伽藍を作り上げた。それがどのような末期を迎えるかは、ぜひ読んでご確認いただきたい。

 永嶋恵美はすでに30年のキャリアがある作家だ。『檜垣澤家の炎上』は間違いなく代表作となるだろう。しかもこれ、続篇が可能な終わり方をしているのである。まさか、大正から昭和の戦後に続く、大河小説になるのか。そうなったら完全に山崎豊子ではないか。ぜひ書いてもらいたい。サーガの誕生を心待ちにしている。

(杉江松恋)

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