河﨑秋子『愚か者の石』に魂を揺さぶられる!
河﨑秋子作品をいつも心待ちにしている私だが、5月末に発売された『愚か者の石』を7月中旬の今まで読まなかった。なぜかというと、日々の仕事に疲れ切っていたからだ。今の自分に、明治時代の監獄はちょっとキツい。心身ともに元気な時に読もう。そんな感じで見ないふりをしていたのだが、読み終わった今、1ヶ月前の自分にこう言ってやりたい気持ちだ。
「今すぐに読め!癒される映像とか見てる暇があったら読め!睡眠時間を削ってでも読め!」
確かに、明治18年の囚人生活は過酷そのもので、緊張感が途切れることはない。しかし、読んでいる人間の体力や気力を奪いはしないのだ。むしろ、その世界に読者として心を置くことで、得られる確かな力がある。
主人公の巽は、士族出身で東京大学の学生だった。坊ちゃん育ちではあるが権威には反抗的なところがあり、学友に誘われて「自由を求めて活動しているという大人たちの集まり」に参加していたところ、誰を傷つけたわけでも殺したわけでもないのに逮捕されてしまう。国事犯として13年の刑期を言い渡され、気位の高い父からはあっさりと見捨てられた。自分を慕ってくれていたはずの幼なじみの婚約者は、巽を密告した張本人である兄に嫁ぐことになったという。
北海道の集治監に収監された巽と同時に雑居房に入った囚人が、山本大二郎という30歳の男だ。二人を殺して無期懲役というが、貧相な見た目からはそういう印象はない。自分のことは語らないのに、時々妙な与太話で周囲を色めき立たせる得体の知れない奴だ。囚人たちは労役の際、二人一組で鎖に繋がれるのだが、巽の相手はこの男である。貧弱な体形だが労働には慣れているようで、的確な助言をしてくれる。そのおかげで、失意のどん底にいた巽は、厳しい労役に生きている実感すら感じるようになる。
大二郎には秘密がある。思わずのけぞってしまうようなやり方で持ち込んだ美しい石を、なぜなのか大事に隠し持っているのだ。巽だけが打ち明けられたその石の存在に、もう一人気づいている男がいる。新人看守の中田である。
士族出身の看守が多い中、農家の出身の中田は周囲から軽く扱われている。そのことを気にする様子もなくいつも能面のように無表情で、ビシッと整えられた制服を着て忠実に職務を果たしている。脱走した囚人に襲いかかられた時には、薪でも割るかのようにためらいなく刀を相手の頭に振り下ろしてかち割った。「節のある薪より余程容易い」という感想に、背筋が寒くなった。これは……かなり危険な男かも。
慣れない監獄での生活をなんとか乗り切ってきた巽だが、身体頑健で真面目であるということで選ばれて、山本とともに釧路での硫黄採掘の労役をすることになる。中田は看守として移送に同行するのだが、そこで運命が大きく動く出来事に見舞われる。三人の間には奇妙な連帯のようなものが生まれるのだが、釧路で待っていたのは、次々に命が失われるほどの過酷な現場だった。
河崎秋子氏の小説には、いつも匂いがある。それは、野生動物の匂いであったり、土の匂いであったりしてきたが、この小説では、狭い雑居房の中で寒さを凌ぐために仕方なく身を寄せ合う男たちの体臭と、熱い蒸気から放たれて、全てに染み付く強烈な硫黄の匂いである。空調の効いた快適な部屋にいるはずなのに、体を壊すような悪臭と緊張で時々息が止まる。
家族や婚約者への憎しみ、人が人として扱われない劣悪な環境、非人道的な労役、信じていた者からの裏切り……。過酷な運命にも心折れることなく自分を保ち、強靭な精神と身体を作り上げていく巽から目が離せない。山本とは何者だったのか。なぜあの石を、宝のように大切にしていたのか。山本に執着する中田の心の奥に何があるのか。明らかになっていくラストに、魂が揺さぶられた。この小説を読まないままでいる人生でなくてよかったと、今はただ、そう思う。
(高頭佐和子)
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