成田空港とは何だったのか

doro

確かなものを見抜く目を養うことの大切さ。責任は私たちにもあるのですね。今回はどろさんのブログ『どろの日記』からご寄稿いただきました。

成田空港とは何だったのか
———–以下引用
前原誠司国交相の羽田空港ハブ化発言を受けて、森田健作知事は14日、国土交通省で前原国交相と会談。「互いに誤解があった。大臣は私と同じような考えで、千葉に対しての思いやりは十分にある。ほっとした、今日はよく眠れる」と前日まで硬化させていた態度を一変、羽田空港の国際化に条件付きながらも賛同する姿勢を示した。一方、前日まで激怒していた知事があっさりと賛同の意を表明したことに対し、地元の自治体からは戸惑いの声も聞かれた。
———–引用ここまで
※『産経ニュース』2009.10.14 23:22 『【羽田空港ハブ化】森田知事一転、賛同の姿勢』より引用
http://sankei.jp.msn.com/region/kanto/chiba/091014/chb0910142322014-n1.htm」

森田健作知事は大臣の説明に納得したみたいですが、成田空港が不便だというのは、何もいまになって分かったことではありません。立地条件の悪さは初めから分かっていました。そこで成田に空港を作るよりも羽田拡張が合理的だとの意見は、開港前からあったそうです。でも羽田拡張は技術的に無理だというので、不便な成田に空港を作ったのでした。

ところがこれがとんでもないウソでした。羽田拡張計画は、成田空港建設と同時期に、並行して進められていたのです。いまから28年も前に、鎌田慧氏がそう書いています。

———–以下引用
1976年秋の閣議では、羽田にもうひとつ滑走路を作ることが決定された。3200メートルあるから、ジャンボが発着するにはなんの不自由もない。羽田拡張計画は、なにもそのころから始まったことではなく、政府に72年当時からすでにあった。こっちのほうが、成田に作るよりも安くつく計算だった。滑走路2本つくって、である。
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※鎌田慧「壮大なるフィクション」(『靴をはいた巨大児』 1981年 日本評論社 収録)より引用

72年と言えば成田開港の6年も前で、用地獲得の真っ最中。まともな滑走路もなく、反対運動が盛んに行われていた時代です。その時点で一方では羽田拡張計画を進めながら、成田現地では「羽田空港は拡張できないからここしかないのだ」という説明で、無理押しの建設計画が推進されていたことになります。これは開港前に書かれたものですから、後知恵ではありません。作られる前から、見える人には見えていたことになります。

———–以下引用
羽田は5年間でパンクする、ということがしきりにいわれていた。新空港が必要だ、といわれてからすでに15年たっていた。三里塚にその位置が決定されてからでも、もう12年になる。それでも羽田はいっこうにパンクしそうにない。とすると、「成田空港」とはなんであったのか、が疑問になる。
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※鎌田慧「壮大なるフィクション」(『靴をはいた巨大児』 1981年 日本評論社 収録)より引用

たしかに疑問です。「開港にいたる経緯で犠牲者の)血も流れた」と森田知事は言いますが、どうして不便な空港を作るのにそんな無理を通したのでしょうか。鎌田氏に先行すること6年、1975年に本多勝一氏が書いています。

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「成田」は本当に必要だったか。羽田空港を検討してみると、それはウソであることがわかった。しかも奇妙なことに、その「必要性」から出発した計画よりはるかにせまく、かつカネのかかる空港として成田は造られた。要するに、造りさえすればよかったのだ。政治資金だの利権だのの力学関係によって成田にもっていかれただけではないのか。「必要論」はその上に砂上の楼閣として建てられたにすぎない
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空港公団の経理部によると、昨年度(1974年度)までに使った金は2128億円。その使途としての工事には「大手の建設業界で加わらなかった企業はほとんどなかった」という。
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そして今、空港公団だけでも金利1日約3000万円。つまり公団だけでほぼ3日ごとに1億円の利子を払っている。ほかに日航など関連会社もばく大な利子を払っているから、成田は仮りに廃墟(はいきょ)と化しても、利子を受け取る金融資本は確実にもうかっていることになる。
———–引用ここまで
※本多勝一「ベトナム戦争と『新東京国際空港』」(『貧困なる精神 第4集』 1981年 すずさわ書店 収録)より引用

鎌田氏も実は同じ指摘をしています。 
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羽田拡張で十分間に合うのに、あえて成田につくるとしたら、それは関連産業を潤すためである、としか考えようがない。「空港」に行くしか用のない人間を運ぶ新幹線さえも、まったく余分な投資である。
———–引用ここまで
※鎌田慧「壮大なるフィクション」(『靴をはいた巨大児』 1981年 日本評論社 収録)より引用

こういうことなら、成田は作るのだけが目的だったのですから、作られてしまえば、利権屋にはもう用がなくなった空港ということになります。どうやらその見方は正しかったようで、2000年ごろから別の動きが表面化しました。この年、扇千景運輸大臣が「羽田の国際化」を唱え始め、待ってましたとばかりに財界から賛同する声が上がったのです。大臣が唱え、すぐさま合いの手が上がるんですから、運輸省やその周辺では、そのはるか以前から計画が作られ、そのための理論構築や環境整備が進んでいたに違いありません。

では彼らはどうして成田空港の滑走路整備ではなく「羽田国際化」だというのか。いわく、成田は交通が不便だ、成田は狭い、滑走路を拡張するにも高く付く……などなど。

おや、ちょっと待った。

交通が不便だという点以外は、成田を推進する論理として、羽田について語られた論理ではありませんか。同じ論理が、こんどは羽田拡張という別のもうけ話に使われている。遠いとか狭いなどというのは、成田を作る前からわかっていたことです。なんなのでしょうか、この茶番は。

やはり成田空港は、政治家やゼネコンのために作られたという鎌田氏たちの見方が当たっていたのだと思います。そんなことのために数え切れない人々を予定地から暴力的に追い出し、幾人もの死者を出して建設したのが成田空港です。

でもいまさらこんなことを言っても、犠牲者が浮かばれるわけではありません。成田には成田の良さも役割もあるでしょうから、その条件を存分に生かして活躍していただきたい。

それよりも、いま見たような利権構造を利用し、私利私欲のために膨大な国家予算を食いつぶしつつ権力を握り続けてきた、それが自民党政治という怪物であった事実を、しっかりと見据えおきたいと思います。二度とこんな悲劇的な浪費を繰り返さないように、政府を監視すべきであると肝に銘じたいと思います。もっともらしいウソをウソと見抜くことのできる力を養いたいと思います。

そうでなければ、こんな空港のために亡くなった方々に申し訳ない。

これから羽田空港のハブ化構想に、有象無象のガリガリ亡者どもがよだれを垂らして群がるはずです。私はまだよく分かっているわけではないのだけれど、ハブ化構想それ自体は必要なことなのでしょう。

それならば、ゼネコンなど国家財政に寄生するしか能がない連中に貴重な税金をしゃぶられないよう、成田の教訓を充分に生かして、新政権には合理的なプランニングを期待したいと思います。

執筆: この記事は今回はどろさんのブログ『どろの日記』より寄稿いただきました。
文責: ガジェット通信

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