書かれなかった思いを描く短編集~井上荒野『小説家の一日』

 タイトルを見て著者の日常を書いたエッセイだと思いこんでいたのだが、この本は「書くこと」にまつわる短編小説集である。登場するのは小説家だけではない。会社員、主婦、編集者、料理研究家、高校生などさまざまな経歴の女性たちが登場し、何かを書いたり、書かれたものを読んだりする。

 『園田さんのメモ』の主人公はるかは、大学を卒業したばかりだ。プロを目指してバンド活動をしながら、父親に紹介された出版社でアルバイトをすることになった。初日にワンピースを着て出勤したところ、やさしそうな女性社員・園田さんから「ストッキング」とだけ書いたメモを渡される。伝線していることをこっそり教えてくれたのだろうと思ったが、どうやら様子が違う。その後も、時々たった一言が書かれたメモを渡される。内容ははるかの男性社員に対するふるまいについての指摘だ。決して間違ったことではないのだが、内容は徐々にエスカレートしていく。直接話をしようとしても避けられてしまうし、表向きはあくまでいつも笑顔で親切な大人の女性である。はるかに好意を持ってくれる社員もいるのだが、相談することができない。

 うわー、これは職場にいるとめちゃめちゃやっかいなタイプだ。はっきり言えよって感じだよね。……なんて思いながら、主人公の反撃も期待しつつ読んでいたのだが、待っていた結末はあまりに意外で、心がチクチクと痛くなった。      

 メール、レシピ、SNS、トイレの落書き……。登場人物たちが何かを書くのは、自分の記録のためであったり、誰かに伝えたいことがあるからだ。だけど、心の内側にある一番大事な気持ちを、まっすぐに記すことができない。そして、書かれなかった思いは、誰かによって受け止められる。著者はその瞬間の心の動きを決して見逃さない。いくつもの壊れやすいパーツを慎重に組み合わせていくようにして、複雑で繊細な人間の感情を読者に見せてくれる。

 その見事さに圧倒されながら、かつて自分が書くことができなかった気持ち、人から受け取った言葉、その奥にあったかもしれないものについて、思いを巡らせずにはいられなくなった。

(高頭佐和子)

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