原発2年05 耐震性(中部大学教授 武田邦彦)

原発2年05 耐震性(中部大学教授 武田邦彦)


今回は武田邦彦さんのブログ『武田邦彦(中部大学)』からご寄稿いただきました。

原発2年05 耐震性(中部大学教授 武田邦彦)

(この「原発2年」シリーズは、「本当に安全な原発を目指して、二度と再び日本が原発事故を起こさないように」という意味で書いています。私が原子力を研究してきた一人としての責任でもありますし、特に特に「原発推進の産業界」、「原発推進の愛国派」の方にも理解を求めます。)

多重防御と同じですが、日本の原発は「耐震性がある」とされています。この場合の耐震性とは、地震の本震に伴って起こる余震、津波、停電、輸送の停滞、混乱などを含み、地震の揺れだけでは無いことは当然ですが、それらに対して大丈夫であることを「健全性」と言います。この用語は原子力関係では多用されるが、それほど一般的ではありません。

事故後「健全性」とか「でございます」という言い回しがテレビでも頻繁にでていましたが、この2つは原子力関係者では一つの会議で数10回はでてくる原子力用語です。

ところで日本の原発が耐震性を持つという一般的な言い方では、耐震性があるとは言えません。震度2で耐丈夫な建物も耐震性を持つからです。では、日本の原発は震度いくつまで持つのですか?という質問については答えることができないようになっています。

原発を建てるということが決まると立地の候補地が決まり、そこに地震学者が行って「この場所に来る最大の地震の揺れは加速度で250ガルと予想される」と言います。そうすると、その250ガルを基準として建物の設計やその他の機械設計が行われます。

あたかも正しそうな手続きに見えるこの耐震性の決定過程は「いかにして震度の低い建物で済ませるか」という電力会社の苦肉の策なのです。

「地震学」または「地震予知学」というのは多くの人が感じているようにほとんど学問とは言えないようなレベルで、いつ地震が来るかばかりでは無く、どのぐらいの大きさの地震が来るかも全くわからないのが実体です。ということは地震学者によってある人は1200ガルと言い、ある学者は250ガルというと言うぐらいの差があります。

2013年になって東京に地震が来るかどうかの診断で、ある東大の地震学者が人工的なコンクリートの建造物を天然の断層と錯覚して判定したと言うことで多くの人がビックリしていましたが、実際にはそのぐらいのレベルなのです。

そこで、電力会社は原発立地の候補地が決まると、普段から十分にケアーをしていた地震学者の内、特に楽観的な予想をする学者に声を掛けます。これが私たちが払っている電力費から電力会社が出している1000億円と言われる「工作費」の一つの実体なのです。

たとえば新潟市の柏崎刈葉原子力発電所の場合、地震学者が予想した最大加速度が250ガル、東京電力が実際に設計したか速度が400ガル、そして現実に中越沖地震で受けた加速度は650ガル程度だったのです。

当然のことながら400ガルで設計された原発が、650ガルで破壊されるのは当然で、建物内はかなり破壊され、3億ベクレルの放射線が漏洩しました。この時の震度は6でした。

震度6で日本の原発が破壊されると言うことは一般の日本人には信じられないでしょう。日本は地震国ですから10年で平均的に震度6以上の地震が13回来ています。だから震度6で破壊される原発が建設されているというのは、日本の原発は地震で壊れることが前提になっているという驚くべき事になっているのです。

「原発は耐震性がある」という言いかたは「震度2まで耐えられる」と言うことの可能性もあるのです。

地震学者に問い合わせて原発の耐震設計をするというのは、官僚の責任逃れです。もし原発を作る時に震度7ぐらいの原発を作れば建設コストが高くなり、その分だけ電気代が上がります。そして実際には震度5ぐらいの地震しか来なければ、ムダなお金を使って高い電気代を支払わせたと言うことになります。

だから、地震が来たときに「地震学者に問い合わせた」という手続きが必要なのです.そうなると「誰に問い合わせる」というのは実施側の任意性が入りますので、普段から研究費を出し、つきあいの深い先生に来て頂くことになり、緩い地震が予想されるようになるという仕組みです。

官僚、電力会社、大学の先生等の原子力関係者は責任を逃れられ、たっぷりと研究費をもらい、天下り団体が作れるのですが、それによる危険性はすべて国民、つまり電気代を納めている方が負担するという実に馬鹿らしい事になります。

著者が原子力安全委員会の地震部会の時に「国民は少し安くても危険な原発より、高くても安全な原発を望むはずだから、過去に日本に来た最も強い地震でも大丈夫なように原発を作るべきである。それによるコストは1キロワットあたり1円60銭にしか過ぎないと私は思う」と発言しましたが、一蹴されました。

このような状態になっていたからと言って原子力関係者が「原発は危険でも良い」と思っているわけでは無いのです。それが問題で、「どうせ地震が来ないのだから、地震のことなど考える必要は無い」とか「どうせテロなど言うだけで来ないのだから・・・」という気持ちが強いのです。

これは日本人特有では無いかと思うときもあります。欧米の人と議論しているときには、数字を出して危険性を論議します。しかし、日本の場合常識と空気が支配し、そこで抽象的に空気が決定されるというプロセスを脱する方法が無いのです。

空気で決定する日本と言っても良いですし、少し良い言い方をすると「大人の日本」と言うこともできます。「そんな大きな地震やテロは言うだけで起こることなど無いよ。それが大人の考えという物だ」ということで、それ以上議論するのは野暮ったいという雰囲気になるからです。

ところで、地震に付随して起こる危険性は多くあります。2011年の地震では津波と交通の問題がありました。たとえば地震が来たら付近から応援をもらうと決めていても応援自体が難しいこともありますし、広い範囲の地震では福島第一ばかりでは無く、福島第二、東海第二など付近の原発も同時に破壊されることすらあります。

また、津波や高波は地震につきもので、必ず備えておかなければならないことですから、津波は地震とは違うなどと言っていたら、耐震性は保たれていないと言うことになるでしょう。

2011年の福島原発の事故は、地震の揺れと浸水によって起こったもので、巷間言われるように「津波の運動量」では無いと考えられます。

普通の表現で「津波で破壊された」というのは、津波の運動量、つまり「津波が流れてくる力」で破壊されることを指します。でも、福島原発の海岸線側には高さ42メートルのタービン建屋があって、それが津波を受け止め、破壊もされませんでした。従って、原発には「津波」が来たのでは無く、「海水」が来ただけでしたが、原発の建物は標高7メートルの所にあり、津波の高さは15メートルだったので、水没したというのが事実でしょう。

原発には地下にすべての電源があり、それが海水に水没したのであっけなくすべての電源を失うという結果になったのです。

このような簡単な原因解析も「国会事故調査委員会」などの公的な原因追及ではほとんど問題にはされませんでした。それは「原発の事故はまれに見る津波が来て起こった事で、不可抗力だった」という結論が必要だったからです。

しかし、日本国は民主主義ですから、多くの人が不安に思っている原発についてもう少し「真面目に」その安全性を検討する必要があると思います。2013年、つまり今起きているプールからの放射性物質の漏洩や、原子炉からの漏れは「耐震性の不足、準備不足」を示しています。

安全を守り、事後処理をするには、固有安全性、多重防御、そして耐震性などの基本的概念がいかに大切かを教えてくれます。

執筆: この記事は武田邦彦さんのブログ『武田邦彦(中部大学)』からご寄稿いただきました。

寄稿いただいた記事は2013年04月16日時点のものです。

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