ユーモアとシリアスさが共存するコロナ禍の日常〜長嶋有『ルーティーンズ』
先週に引き続き、コロナというものについて考えさせられた本を選んでみた。長嶋有作品を読む楽しみのひとつは、随所にみられるユーモアとここぞというところでのシリアスさを堪能することだ。いつも匙加減が絶妙だなあと思っている。
本書に収録されているのは、エッセイかと思ってしまうような内容の2編。「願いのコリブリ、ロレックス」は、雑誌掲載時には「願いのコリブリ」「願いのロレックス」という2本の短編だったもの。2編とも、作家の夫・漫画家の妻・保育園児の娘という3人家族の日常を描いた作品である。夫視点と妻視点の両方から書かれている点も同じだ。同じできごとを複数人の視点で書くというのはフィクションでもよく使われる手法であるが、本書でも「夫と妻で、それぞれこんな風に考えていたのか」と思わされる部分がいくつもあった。といってもミステリーのどんでん返しなどにあるように、”登場人物によって見えるものが劇的に違っている”というわけでもなく、どちらかというと夫婦で同じような感慨を覚えているところにリアルさを感じる。家族って考え方や好みとか似通ってくるとこあるよな、と思うし。
一方で、2編には大きく異なる点もある。著者インタビューにおいて、「願いのコリブリ、ロレックス」を書いている時点でコロナはすでに存在していたものの、その状況を咀嚼しきれていないような意識があったと語られている。その後緊急事態宣言によって緊迫感が増して人々の感覚も変わったことを、「願いのコリブリ、ロレックス」と表題作とで変化をつける装置として使ったという。確かに表題作では、コロナ禍での生活というところが明確に描かれている。最初の緊急事態宣言が出た前後の時期という設定で、作中で描かれている主人公たちには、コロナというものに対して身構えている様子が見受けられるのがいまとなっては新鮮だ。
たとえ常ならぬ対応を強いられる生活ではあっても、日常はあくまでも日常だなとも思う。とりわけそれを感じたのは、娘について描かれている場面だった。まだ2歳といえど、両親と大人同士のような会話をしているところもあるし、トイレトレーニングも順調な様子。かと思えば、好きなプリキュアが再放送されていることには無頓着で(緊急事態宣言によって新規制作が滞った結果)、父が出演しているラジオ番組を聴いてもすぐに飽きてしまう。もちろん、保育園の休園をはじめ、コロナウィルスによって自分たちの生活が大きく変わったこともよくわかっていない。2歳児にとって、基本的に日々は淡々と進んでいくものなのだろう。どんなことがあっても、揺らがずにいられる存在もいるという事実に、個人的には勇気づけられる。できることなら、子どもたちの生活が脅かされることのないうちに、速やかにコロナ以前の状態に戻ってほしい。それが難しいならせめて、彼らが大きな不安や不幸に見舞われることのないようにと願う。幸い長嶋家の娘さんは、ユーモアセンスあふれるご両親のもと、健やかに成長されているようで何よりだ。
それにしてもたった2年足らずのことなのに、しかもコロナという未知のウィルスに対して恐れのような気持ちを抱いていたはずなのに、いろんなことを忘れてしまっていたなと驚かされる。イタリアの市長が「家でプレステしてろ」と言い放ったことなども、本書を読んで久しぶりに思い出した。作家はみなそうなのだろうけども、やはり長嶋さんの観察眼や記憶力というのはすごい。それらあってこそ、このようなおもしろみが醸し出されるものだと思い知らされた気がする。だって例えば、お隣の奥さんを見て「キャッツアイ」の女盗賊みたいなんて思う? しかも、それをアニメの主題歌を歌うことで表現するなんてできる? 日常生活には笑いと深刻さが共存している。何か事が起きれば人間は否応なくシリアスにならざるを得ないけれど、ユーモアのセンスは誰もがふんだんに持ち合わせているとは限らない。人生においては当然笑ってばかりもいられない場面もあるが、長嶋作品を読むことで読者の気持ちが軽くなるといい。
(松井ゆかり)
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