楽しくファンダムを広げることが社会に及ぼす影響は? 北村紗衣『批評の教室:チョウのように読み、ハチのように書く』インタビュー
前作『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』(書肆侃侃房)で、様々な名作をフェミニスト批評、クィア批評で読み解き、作品と対峙する際の新たな視点を提示した北村紗衣。その北村が今年9月に発表した『批評の教室:チョウのように読み、ハチのように書く』(ちくま新書)は、初心者でも批評を行うことができるようになるための実践書だ。
北村は批評の重要な機能の一つは、作品の受け手側が「批評を通して楽しくコミュニケーションをとり、共同体を育むこと」だと言う。NeoLでは、北村に“楽しい”について、またファンダムが社会の中で果たす機能などについて聞いた。
――『批評の教室』、楽しく読ませていただきました。個人的には、推しの新たな面を見つけたり、布教するためのツールとして批評を用いればいいのだという発見がありましたし、北村さんが本書で例えに出されているシェイクスピアや洋楽などと同様に「批評」自体を推されているのが伝わって「私も推せる!」という気持ちになりました。前作『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』にも通じますが、北村さんは著書で意図的に“楽しい”を重要視した書き方をされていると感じたのですが、いかがでしょうか。
北村「私は書くプロセス自体も楽しく、書いたものを人と交換してコミュニケーションが始まることも楽しいというのが批評の機能として大事だと思っています。そもそも批評は真面目で人を批判するようなつまらないものだと思っている人もいるので、とにかく批評は楽しいよという話はしたいと思っていました。
そこにはもちろん、“楽しい”の解放もあります。女性が楽しんでいる、あるいは非白人が楽しんでいることを取り締まりたがる傾向は昔からあり、庶民が贅沢をしていると取り締まられる法律(奢侈禁止令)もありました。市民同士でいろんなコンテンツに対して上手い下手だという議論が起きるのは健全なのですが、国家による制度的な統制が発生するとやはり健全な芸術の切磋琢磨がなくなっていく。“楽しい”が権力によって抑圧されるというのは昔から色々と問題があったんです。また、正典形成を考える際にも文学と芸術は実存的な真面目なものであるという考えがあり、“楽しい”が軽視されてきた時代があったのですが、私はもっと楽しいとか笑えるとかそういったものを正典形成の時に組み込むべきじゃないかという考えなので、そこも反映されているのではないでしょうか」
――なるほど。批評を通してコミュニケーションを広げるというのは、以前別のインタビューでおっしゃっていた「会話は教育、哲学の基本」という考え方に通じています。改めてなぜ会話が重要なのかを教えてください。
北村「一人でずっと考えているより、人と話した方がお互いに今まで思いつかなかったような視点を得ることがありますよね。視野を広げること、会話に参加している全員が新しいことを思いついたりすることができるという点で、コミュニケーションは学問をするうえでとても大事なことだと思っています。
私は普通のコミュニケーションは苦手であまり友達がいませんが、作品や特定の文章を主題にすると話せるんです。コミュニケーションが苦手な人でも学問ができるというのは、主題が決まっていれば何かしら自分なりの意見を言えるから。コミュミケーション力がないと学問や批評ができないということではなく、逆に作品を巡って話すことでコミュニケーションの障壁が低くなるところがあるのだと思っています。主題があることで普段話さないような人とも情報交換ができますし、それもまた様々な新しい視点を与えてくれる良いことではないかなと思います」
――推しという共通項があると見ず知らずの人とも話せるという自分の経験と照らしてもおっしゃることは良くわかります。北村さんは英文学の受容文化、いわゆるファンダムのような受け手側の研究をされていますが、受け手側が共同体を持つことは社会の中でどのような意義があるのでしょう。
北村「作品の前にできるコミュニティには、芸術的な意義、経済的な意義、政治的な意義があると思います。芸術的な意義というのは、その作品のどこが良いか悪いかをみんなで議論することで作品を見る目が肥えるという受け手への影響に加え、ああいうことをすれば高く評価されるのか、では自分の作品でもこういうことをしたい、あるいはこれはやめようなどとクリエイター側にも色々なフィードバックができるので、健全な批評空間では作品が良くなっていくはずというもの。どの作品が後世に残るのかという部分も、そうした需要によって決定されるところがあると思います。ただそこには運も作用するというか、権力者や宣伝の上手い人が褒める作品の方が残りがちで、内容が良くても権力者に支持されていないと残りづらいというようなちょっと危険で生臭いプロセスもあったりします。
経済的な機能というのは、作品の周りにできるコミュニティによる経済活動。例えばシェイクスピアが正典化され始めた18世紀に行われた初の近代的なシェイクスピア祭りである“シェイクスピア・ジュビリー祭”では、現代と同様にシェイクスピアのグッズなどが売られていました。他にもシェイクスピアの生まれ故郷に聖地巡礼に行ったり、シェイクスピアの翻案を書いてそれを舞台にかけたり本にして売ったりと、色々な経済活動があります。
政治的機能に関してはちょっと難しいところなんですが、作品について論じたり記事にすることが政治活動に結びつくところが結構あるんですよね。どういう政治活動かというと本当にバラバラ なのですが、例えばシェイクスピアはわりとナショナリズムに利用されたりしますし、逆に文化政策にお金を使ってもらえるよう政府に訴えようという活動もあります。また、私が訳した『コンヴァージェンス・カルチャー:ファンとメディアがつくる参加型文化』という本では、作品の中に描かれている理念などに基づいて政治活動するような人たちが多く出てきます。ハリー・ポッターのファンダムは昔から二次創作を守るための運動が盛んなのですが、特に映画スタジオ(ワーナー・ブラザーズ)に権利が移ってからはハリウッドが自分達の二次創作コミュニティを潰さないようにしようと声をあげていて、ファンダムが著作権であったり、企業の論理に抵抗するというような政治的機能を持つ場合もあります。このように作品の周りにできるコミュニティは芸術的にも経済的にも政治的にも時には大きい役割を果たすようになっていると思います」
――個人的には、社会を良くすることで芸術の質を上げることはできても、芸術の質を上げることで社会を良くすることができるとは必ずしも言いがたいと思っているのですが、その点はいかがですか。
北村「私も芸術が良くなると社会が良くなるというわけではないと思いますが、稀にものすごい影響力を持つ芸術作品があるんですよね。大袈裟ではありますが、ハリウッド・ビーチャー・ストウが南北戦争を起こしたんだと冗談まじりに言われるくらい、当時『アンクル・トムの小屋』(1852年)は広く読まれていて強い影響力がありました。今では、旧来の人種ステレオタイプに乗りすぎていると批判されていたりもしますが。このように、滅多にはないけれど上澄みのごく一部の作品は社会に影響与えていると思います。
何より大事なのは多様な芸術作品が存在することです。みんなが自由に芸術活動を行い、多様な作品が作られ、それが批判されたり褒められたりという健全な言論がある。その中でごくわずかなトップレベルのものが何らかの形で社会に影響を及ぼすのではないかと思います」
――ハリウッド・ビーチャー・ストウのように人の気持ちを動かしたり、共感を生む作品を生み出すアーティストはアジテーターになり得ると思いますが、批評家もまたそのような立ち位置になり得る可能性があるのだと北村さんの活動を見ていて思いました。北村さんは「女オタクの現在」特集(『ユリイカ』2020年9月号)に寄せた記事のなかで、『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』が旧来のファンダムに媚びたことで酷い内容になってしまったと書かれていました。『スター・ウォーズ』のファンは既に力を持ち、作品に悪影響を与える帝国になっているのではないかという指摘でしたが、北村さんはデマゴーグや帝国軍にならないために、どのような自戒をお持ちですか。
北村「批評家は国や文化ごとに持っている力が違います。例えばアメリカ映画で『イヴの総て』というブロードウェイの内幕を描いた作品がありますが、そこでは劇評家が非常に力を持って描かれていました。なぜかというと、ブロードウェイもウエスト・エンドもロングラン形式で上演するので、批評家が貶すと1週間くらいでお芝居が閉じてしまう。お芝居が続くかどうかの権限を批評家が握っているんですよね。そうすると『イヴの総て』のように色々とエグいことが起きたりする。映画は批評家よりもプロデューサーの方が権力を持っているので、その辺がまたちょっと違っていたりします。
日本では、劇評家は全く力がありません。そもそも日本は上演期間が長くないので、批評家が褒めたことで再演されることはあっても、貶したせいでプロダクションが閉じるということは滅多にない。力がないとは言え、日本の劇評家としてできるだけやった方がいいと思っていることは、小さなプロダクションでも良いと思うものはきちんと褒めること。とても手間がかかることなので必ずしも常にできることではないですが、予算規模が小さくても良い作品を見つけたらちゃんと褒めるということは大事にしています」
――それもまた裾野を広げるということですよね。本書は一般的な批評がメインですが、「事実を曲げない」「背景を読み解く」「好きなものに惑わされない」などの一般的な批評でのベース以外に、北村さんの専門であるフェミニスト批評、クィア批評を行う際に気をつけていることはありますか。
北村「フェミニスト批評でもクィア批評でも、今までにあまり注目されてこなかったところや隠されたところにしっかり注目して読み解くことが重要です。そういうものはそもそもが読み取りづらく書かれていたりするので、細心の注意を払いながら読んで分析したり、目の付け所からして変えないとなかなか良い批評が書けなかったりするので大変ですが、研究者としてはできうる限りの力を注いでやっています」
――フェミニスト批評やクィア批評が急増していることで、例えば呼称などの更新を巡る議論なども多く起きています。そうした知識などのアップデートのために日々行っていることがあれば。
北村「海外のニュースは日常的にチェックしています。チェックするニュースは人によって違うと思いますが、私はセクシャル・マイノリティ向けのニュース・メディアや、映画、演劇などの専門のニュース・メディアなど、特定分野に絞った専門メディアを見るようにしています。The Daily Beast(https://www.thedailybeast.com)やPink News(https://www.pinknews.co.uk) The Stage(https://www.thestage.co.uk)などですね。毎日見るものはあまりなく、いろんなメディアを週1回くらいの頻度でチェックしています」
――ありがとうございます。最後に、今後どのような作品や活動などが控えているか教えていただけますか。
北村「いまは学生向けの教科書を編集していて、翻訳も一冊手がけています。しばらく教育的な本を書いたので、この後は本当に世界で10人くらいしか読まないような、史料を読んで研究しましたというような専門書を書きたいです」
illustration Akiko Tokunaga
text Ryoko Kuwahara
北村紗衣
『批評の教室:チョウのように読み、ハチのように書く』
(ちくま新書)
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480074256/
北村紗衣(きたむら・さえ)
1983年生まれ。武蔵大学人文学部英語英米文化学科准教授。専門はシェイクスピア、舞台芸術史、フェミニスト批評。ウィキペディアンとしても活動する。著書に『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』(書肆侃侃房)、『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』(白水社)、共訳にヘンリー・ジェンキンズ『コンヴァージェンス・カルチャー』(晶文社)がある。
都市で暮らす女性のためのカルチャーWebマガジン。最新ファッションや映画、音楽、 占いなど、創作を刺激する情報を発信。アーティスト連載も多数。
ウェブサイト: http://www.neol.jp/
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