連載開始!

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 皆さん、はじめまして。佐藤剛裕と申します。学部生の頃からチベット・ヒマラヤ周辺地域に伝承されてきた仏教や文化の歴史について研究するとともに、一人の仏教徒として教えを学んでいます。昨年 Twitter で松下さんと出会ってイベントに呼んでいただいたことがきっかけとなり、ここ彼岸寺でブログ『ヒマラヤ求法巡礼記 ー極楽デッド・オア・アライヴー』を書くことになりました。宗派を越えて集まった同世代の僧侶の皆さんと一緒に、いまという時代を生きる仏教のありかたをさぐろうという運動にこうして参加できることを心からうれしく思っています。

 このブログでは、僕がヒマラヤ文化圏を訪ね歩きながら見たものや出会った人から聞いたことについて書いていきたいと思っています。まずは僕がどのようにチベット仏教と出会って足を踏み入れていったかというような思い出話から始めて、いま拠点としているネパールの首都カトマンズの郊外の古い大仏塔のあるボードナートという町から見たチベット仏教世界の様子を描いていこうと思います。ヒマラヤ周辺地域で暮らしている人々が、現代の政治経済の状況の変化とどのように対峙して生活しているのか、その中で伝統的な文化をどうやって継承していこうとしているのかを、あまり飾り立てずに紹介していきたいと思っています。

 僕がなぜここで「あまり飾り立てずに」なんていうことを気にしているかというと、これまでのチベットの仏教や文化の海外への紹介のされかたが、どのくらい今の現実に即しているのかということが大いに疑問に感じられるようになってきたからです。90年代の後半から2001年ごろにかけてインド・ネパールのチベット文化圏や亡命キャンプをよく旅していましたが、しばらく日本で社会人のようなことをしていた後に研究の道に復帰しようと2008年に再びインド・ネパールを訪れたときに、自分が記憶の中に思い描いていたようなチベット仏教社会というのが大きく形を変えつつあることにある種の衝撃を受けたのです。チベットの仏教を伝えてきた人々は世代交代の進む中で、グローバル化が進行している世界に向かって次の一歩を踏み出そうともがき苦しんでいるようにさえ見えます。

 それでもまだ、一般的なメディアには、チベット仏教をむやみに神秘のベールにつつまれたものとして扱ったり、または巨大な寺院組織を絶対的な権威のあるものとのして崇めたりする一方、古い伝統に属する教えを不純な要素を含んだ堕落した教えだとさげすんだりするような歪んだ言説がいまだに散見されます。それに海外布教に熱心なラマ達がどんどん増えていて、その取り巻きの外国人弟子達の発する情報というのがどこまで公正なものであるか、だんだんあやしくなりつつあるようです。僕たち日本人は、そういうものに出来るだけ巻き込まれないようにしなくてはならないように思うのです。

 これは自分でも思い当たる節が大いにあるのですが、チベット文化圏を旅行して写真や映像を撮ったりしていると、その土地がいかに奥深い秘境であるか、チベットの仏教文化がどんなに特異で貴重なものであるかというようなことをいささか誇張気味に宣伝したくなってしまうのが人情というものです。同じように、チベット人達の中にちょっとでも足を踏み入れると、その地点がチベット社会の中心だと勘違いしてしまいますし、学術的な研究などを始めると、自分が読んでいる文献は最も貴重で信憑性が高く、自分の扱っている事例こそがチベット仏教文化の核なのだと確信してしまいます。

 ましてや、ちょっと仏教を修行したりすると、自分が教えを受けている先生がいかに優れているかとか、自分の連なっている系譜がいかに由緒正しいかということが誇りに思えてきたりします。すると、誰か偉い先生が言ったのだから絶対に正しいのだとかいう権威主義だとか、どの本に書かれているのだから絶対に正しいのだというような還元主義にとらわれてしまい、それを人にまで押し付けようとしてしまうことがあるのです。これでは、心の自由を求めてチベットの仏教に興味を持った人にとって、なにか有意義なものをあたえられるどころか、かえって束縛を増してしまうことになりかねません。

 これまでのように無批判に美辞麗句ばかりを並べあげて、チベットが夢のように素晴らしい仏教王国だったような甘い幻想を作り上げていては、僕たちにとって本当に必要なものは何も見えてこないでしょう。こういうことをいうと、いわゆるチベット愛好家の方からは眉をひそめられるようなこともあるでしょうし、熱心なチベット仏教徒の方々からは不謹慎だというお叱りを受けるかもしれません。しかし、余計なフィルターをかなぐり捨てて、いま現在のチベット仏教の抱える課題に目を向けるほどに、それが驚くほど現代日本人の仏教を巡る課題と接近してきていることが分かってきます。そこまで掘り下げていくことで、ようやく日本の仏教徒とチベットの仏教徒の真の対話が可能になるように思うのです。この彼岸寺というインターネット寺院のサイトで、このようなブログを書く機会を戴いたことが、チベット文化圏や日本の社会を、仏教を通して見つめる良い機会になることを願っています。

 さて、この連載のお話を戴いたときに『ヒマラヤ逍遥記』というちょっとソフトな感じのタイトルを考えていたのですが、もう一歩踏み込んで『ヒマラヤ求法巡礼記』とすることにしました。「極楽デッド・オア・アライヴ」というサブタイトルは、松下さんとSkepeで打ち合わせしながら仏教用語とロックっぽい言葉を思いつくままに組み合わせてみたのですが、その中でも松下さんが一番響きがカッコよくって好きだと言ってくれたものを最終的に採用しました。というのもこの案は、ちょっと80年代のダサい洋楽バンドのアルバムの邦題みたいでもあるのですが、今生で空性大楽を味わうことが出来るか死が訪れるのが早いかという瀬戸際で放浪修行を続けていた古のタントラのヨーガ行者達の気概を現しているようにも思えたからです。そういうイメージを、昨年出演したイベント「ニッポン仏教夜話2010」のフライヤーの強烈なビジュアルイメージを担当した京都の鬼才、宇治茶さんに伝えてもらったところ、このような(ひどい)ものすごいタイトルバナーができ上がりました。彼の描く絵の勢いに負けないような気概を保ちながら、皆さんにお便りを書くような気持ちで気楽にやっていけたらと思います。よろしければしばらくの間、お付き合いください。

ヒマラヤデッドオアアライブ

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佐藤剛裕

佐藤剛裕:彼岸寺

ウェブサイト: http://www.higan.net/himalaya/

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