『千日の瑠璃』485日目——私は対岸だ。(丸山健二小説連載)

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私は対岸だ。

歩いて渡って行けそうな氷に覆われたうたかた湖を前にする者が、どうしても意識せずにはいられない、対岸だ。道理に適う生き方を崩さなくても、歳をとって気弱になった者が、私に向ってため息をつき、論落の晩年を送る者が、眠そうな眼で私をいつまでも眺める。やること成すことうまく運んで、病気ひとつしたことがない果報者や、おそらくゆくゆくはひたすら美名を求め、虚名に酔う徳操のない学者になるであろう、尊大な若造は、私に向って大笑を叩きつけてくる。

世間の裏の事情に精通している札付きの悪党や、刑務所とまほろ町のあいだを何回でも行き来する盗っ人の片割れは、私のどこかに絶対安全な隠れ家を夢見る。親譲りの如何ともし難い性格に悩む者や、悪癖に染まって、いつも知人から体よく追い払われている者は、むらむらと湧いてくる遣り場のない怒りを私に委ねて帰って行く。酒徒と交わり身を持ち崩しかけている者や、迂闊に手を出して泥沼にはまりこんでしまった博打好きの者は、私を相手に弁解する。四十年生きても、懇談したいことがあるとまだ誰からも言われたことがない者や、不義理を重ねて身内から爪弾きされた者は、私に背を向けて悄然と去る。

そして少年世一は、私と向き合っても決して動揺することはなく、私に過剰な期待をかけることもなく、たとえば自分の足元を見るときとまったく変らぬ眼ざしで私を見る。
(1・28・日)

丸山健二×ガジェット通信

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