追い詰められた者の小説『その手を離すのは、私』
逃亡者、あるいは追い詰められた者の小説というべき作品である。
クレア・マッキントッシュ『その手を離すのは、私』(小学館文庫)は、轢き逃げという身近な事件から始まる物語である。著者あとがきによれば、作者は1999年に警察官としての訓練を始め、2000年にオックスフォードに配置された。その年の12月に、ブラックバード・リーズで9歳の男児が暴走する盗難車に轢き殺されるという痛ましい事件が起きている。それがマッキントッシュの心に大きな印象を与えたのだという。2014年に初めての長篇を書きあげてデビューを果たしたとき、題材として選んだのがこの事件であった。
冒頭では、母親の視点から轢き逃げ事件の顛末が描かれる。5歳のジェイコブは、母親の手を振り切って駆けだしてしまい、どこからともなく現れた車に跳ねられた。運転手がドアを開けて降りてくることもなく、車はその場から逃走した。
小説は二章構成になっている。轢き逃げ事件を担当したのは、ブリストル警察犯罪捜査課(CID)警部補のレイ・スティーヴンスと、部下のケイト・エヴァンス巡査だ。無慈悲な犯人に怒りを掻き立てられたケイトは、時としてレイが危ぶむほどにこの事件捜査に執念を燃やす。時が経っても一向に手がかりは見つからず、レイは上司から捜査の打ち切りを命じられる。しかし、部下の態度に良心の疼きを掻き立てられ、非番の時間などを使って非正規に捜査を続けることを承知してしまうのだ。
長い時間を共に過ごしているうち、二人は上司と部下という関係から逸脱しかけてしまう。レイの妻であるマグスは子供を産んで家に入ったものの元は同じ警察官であり、夫の仕事内容も理解している。後ろめたさのため、レイとマグスとの関係がぎくしゃくしてしまう脇筋が、小説の構造を立体的にするのに一役買っている。
叙述はレイだけではなく、もう一人ジェナという女性の視点からも行われる。ジェイコブの事件があった後、彼女は心に大きな打撃を受けた。世間の人は轢き逃げの犯人だけではなく、5歳の子供の手を離して道路を渡らせた母親にも避難の言葉を浴びせた。事件に対する無責任な声が溢れるブリストルにいることに耐えられず、ジェナは一人で旅立つのである。たどりついたペンファッチは、人影もまばらな海辺の小村だった。そこでコテージを借り、彼女はひっそりと暮らし始める。
――目を閉じたときに浮かんでくるのは、あの子の体だけ。私の腕の中で、じっと動かず、死んでいる。私があの子をいかせてしまった。そしてそのために私は一生、自分を許すことができないだろう。
事件の記憶から逃げ出したジェナは弱い。マグスと向き合わず、捜査にのめりこむことで自分をごまかそうとするレイも、ありようは違うがやはり弱い人間である。作者はそうした人間の負の部分を単純に否定せず、彼らが自身の足で立ち上がろうとするのを辛抱強く待っているかのようだ。
それが第一章なのだが、幕切れにある出来事が起こり、物語の様相ががらりと変わる。第二章にはそれまでの登場人物たちとは異質な、つまり他人の弱さを食い物にするような人間が現れるのである。その第三の語り手、〈僕〉による叙述は、第一章の不足した部分、事件の裏側を補うような内容になっている。彼の視点から見た世界は、吐き気を催すようなおぞましいものである。ジェナの見ているものが、おぼろげな光しか見えない薄闇だとすれば、〈僕〉のそれは煌々と照らされたまったく別の世界だ。ただし、人工灯の照射を強くするあまり、不自然な影がいくつもできてしまっている。読者は、初めから〈僕〉の欺瞞に気づくはずである。興味の中心は、この腐臭を放つ独白が事件のどこに接続するかということに絞られる。
人を支配するために暴力を用いる人間がいる。生命は無事でも、心が暴力によって殺されてしまうことがある。第二章で浮上してくるのはそうした問題だ。子供の死という痛ましい出来事によって始まった本作は、後半に至って在るべき場所にひとびとの心を戻せるか、心の平穏は訪れるのかという物語に姿を変える。実質的には523ページで明らかになることで話は完結しており、もう一つ準備されているどんでん返しは過剰な読者サービスという気がする。その前に語られたことで登場人物たちの造形はほぼ完了しているからだ。デビュー作だから全力を尽くしたかったのだろうが、良い編集者が伴走していれば、興が乗り過ぎた作者をやんわりと押しとどめていただろう。
しかし、ジェナとレイ、二人の主人公によって心の弱さを描くという作者の企図は十分に成功している。レイが朴念仁で女性の気持ちがさっぱりわかっていないところもいい。正しくなければいけない、弱いままではいけないという強迫観念をいっとき忘れさせてくれる小説だ。間違うこともある。誰もが強くなれるわけではない。人間はだいたいにして愚かなのだから。そうだよなあ、と溜息をつきつつ、まあ、でも明日は少しぐらいぴしっとしてみっか、などと呟いてみる。
(杉江松恋)
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