ネットをめぐる日米欧の視点の違い

ネットをめぐる日米欧の視点の違い

今回はoribeさんのブログ『Meine Sache ~マイネ・ザッヘ~』からご寄稿いただきました。

ネットをめぐる日米欧の視点の違い

基本に立ち返りまくる議論で恐縮なのですが、インターネットという、1990年代以前には存在しなかった新しい媒体に対する世界各国の向き合い方の違いは、各文化の特性を非常によく現していると感じます。

アメリカ文化は、言うまでもなくインターネットをビジネスとして捉えました。そして数々のビジネスモデルを考案して今に至ります。今日見られるほとんどのネットビジネスはアメリカ発、あるいはアメリカで生まれた着想にインスパイアされたものです。

一方ヨーロッパは、インターネットのビジネス応用という点において大きくアメリカの後塵を拝し、あまりイノベーションを生み出していません。しかしビジネス以外に目を向ければ、アメリカとは違う分野で世界の先端を進んでいます。

それは例えば、ネットの論理を政治に反映させようとする「パイレート党」のようなムーブメントです。アメリカにも同様のムーブメントはありますが、ヨーロッパの後追いで、本場ほどには成功していません。物事を政治的、理念的に捉える伝統の強いヨーロッパでは、インターネットもまた政治理念として発展しやすく、その点において他の追随を許さないのです。

そうした傾向は、スウェーデン生まれのビットトレントサイト「パイレート・ベイ」の運営グループや、メガアップロードで逮捕されたドイツ出身のキム・ドットコムなど、ヨーロッパ産「ファイル交換界の寵児たち」の姿勢にも表れています。彼らの姿勢は、例えば最初期のファイル交換サービス「ナップスター」の仕掛け人として有名なアメリカ人、ショーン・パーカーの姿勢などとは根本的に違います。

パーカーはあくまで「新時代のビジネスマン」であろうとし、ナップスターをめぐる体制との衝突は、目的ではなく結果にすぎませんでした。しかしヨーロッパ人たちは、体制と衝突して変革することを目的とし、「ディシデント(反体制活動家)」として振る舞おうとします。

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新しいミディアムに対するアメリカとヨーロッパのアプローチの違いは、およそ100年前のマスメディア勃興期にも見られました。

新聞、映画、ラジオという新しい情報伝達システムの誕生に際し、アメリカはそれを大衆の心理を操作して消費意欲を刺激するビジネスツールとして認識し、そのためのビジネスモデル、広告理論を発展させました。

しかしヨーロッパ人はマスメディアを政治として捉えました。有能なジャーナリストであるムッソリーニにより創始されたファシズムは、上から下、中央から外縁へと流れる情報を通じ群衆を巨大なマシンへと変えるマスメディアというシステムをそのまま政治理念化したものです。

ファシズムは敗北しましたが、その遺産である「マスメディアに最適化された政治」は今に受け継がれ、マスメディアビジネス同様、20世紀社会の核心として今も君臨し続けています。インターネット時代を迎えた今、インターネットに最適化された政治を開発するのは、今回もまたヨーロッパであるに違いありません。

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さて日本です。

アメリカはビジネス、ヨーロッパは政治なら、日本もまた特有の視点からインターネットにアプローチし、ネットの発展に大きく貢献しています。

インターネットにおける日本的なものの存在感は想像以上に大きく、ネット流行の発信地として世界各国で人気を集める匿名掲示板は直接、間接的に日本にインスパイアされたものばかりです。なぜならば、いち早くインターネットの持つ匿名性に目をつけ、遊び方を確立し、文化にまで高めたのは日本だからです。

ではこの日本のユニークな視点、アメリカやヨーロッパではスルーされた匿名性に惹きつけられた背景にある事情は何なのでしょうか?

およそ100年前にマスメディアと邂逅したときに見せた姿勢は、そのヒントになるかもしれません。

ラジオという新技術の導入にあたり、案の定日本の力点の起き方は欧米と相違していました。1925年のラジオ放送開始にあたり、東京放送初代総裁の後藤新平によりなされた演説は、それをよく表しています。

我々は声を大にして強調したい。無線電話は決して享楽的事業ではありません、一時の遊戯気分や好奇心に駆られて、これに投ずるがごときはむしろ科学文明を冒涜する外道である。現代および将来における国家生活と社会生活とを支配する一大新勢力の勃興ーーそれがすなわちラヂオであります。したがって当局者も、ないし幾万のファンも極めて厳正なる意味において、新文明の利用に堪えゆべき倫理的、自治的自覚を有するや否や試験せらるべき場合に立っているのである。

15分間の演説の中で、後藤は何度も「倫理」や「道徳」という言葉を繰り返しました。ラジオを手にした日本は、何よりもその倫理的側面を気にかけていたのです。次にあげる欧米の放送パイオニアたちの言葉と比べると、そのトーンの違いに驚かされます。

(テレビは)この動乱の世界に希望の灯をもたらすアートであります。全人類の利益のためにその活用方法を学んでいかねばならぬ創造的力であります。この工業技術の奇跡は、いつの日か各家庭に世界をもたらし、また民衆の物質的福祉に奉仕するための新産業をアメリカにもたらすでありましょう。…(テレビは)アメリカの経済生活における重要な要素となるのです。――アメリカ「放送の父」デビッド・サーノフ、テレビジョン発表時の演説より(1939)

日々の苦しい生活に耐え、労働意欲を保ち続けるには、娯楽と気分転換は不可欠であります。放送の役割はここにあります。あらゆる層の国民の耳に、芸術的、精神的に優れた番組を届け、またそれと同時に新しい産業を興し、労働者と事務員に就労の機会を作り出す。その時はじめて放送は意義のあるものとなり、ドイツ国民の利益となるのであります。――初代ドイツ放送長官ハンス・ブレドウ、ラジオ放送開始に向けての内示(1923)

アメリカ、ヨーロッパ同様、日本文化もまた100年前の特性を維持しているとするなら、インターネットという新媒体に、まずは倫理という尺度をあてるのは自然であり、既存の倫理をリセットする匿名性の力に注目するのは必然と言えます。

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日本の匿名文化は倫理への過剰な意識から生まれたという推論は、日本の匿名文化にのみ見られる特異な傾向を説明できます。

欧米の匿名文化は、日本から「倫理/権威からの自由」という側面のみ輸入し、あらゆる権威に背を向ける、「ゆるいアナキズム」とでもいうべき性格を帯びています。しかし日本の匿名文化は、倫理の鎖を切断して得た自由で、周囲の不倫理を叩くという倒錯した傾向を持ちます。

また欧米では、「ゆるいアナキスト」たちの生み出す下劣で醜悪な言論に対して、実際に違法行為でも起こさないかぎり誰も特に問題視しません。しかし日本では、既存の倫理を否定する匿名文化は、それ自体大問題と捉えられがちで、喧々囂々の議論を呼びます。

アメリカはビジネスフェチ、ヨーロッパは政治フェチ、そして日本は倫理フェチ。倫理をめぐる議論はベタベタして辛気臭いですが、それも日本文化の宿命と、受け入れるしかないのかもしれません。

執筆: この記事はoribeさんのブログ『Meine Sache ~マイネ・ザッヘ~』からご寄稿いただきました。

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