なぜ村上春樹はノーベル文学賞をとらないか
今回は大原ケイさんのブログ『Books and the City』からご寄稿いただきました。
なぜ村上春樹はノーベル文学賞をとらないか
毎年のようにノーベル賞が発表間近になると、果たして村上春樹はノーベル文学賞を取るのか?とマスコミも出版業界の人も喧しいのに正直ウンザリする。私はもう何年も前から「彼は取らない」と言い続けているのだが、誰も聞いてくれないようで少々疲れた。
だからここにその理由を挙げてもう終わりにしたい。
1. 下馬評オッズには全く信憑性がないから
村上春樹がノーベル文学賞を取る確率、なんてオッズを出している団体といえば、イギリスのLadbrokesとか、ラスベガスのスポーツカジノサイトとか、つまりはスポーツの試合結果予想に金を賭けさせて儲けるうさん臭い業者ばかり。
日本でも一時期Jリーグサッカーの試合結果で決まるロトくじがあったように思うけど、わかるでしょ? あれはギャンブル狂に自分はスポーツが好きだからやってるんだと錯覚させる効果があるけど、かなり中毒性の高い賭博に他ならない。
文学への理解とは遠いばかりか、普段そんなもんにハマっているギャンブル狂いの人たちが本なんて読むわけないでしょ。だから毎年マスコミが引用するこのオッズってのはそういう人たちの知名度と人気投票に左右されるわけで、実は何の根拠もない。村上春樹のオッズが高くなるのは、要するに英語圏でそこそこ知られている日本の作家が彼ぐらいしかいないということ。
実際にノーベル文学賞を選考しているのはスウェーデン・アカデミーの人たちで、誰が候補になっていたかというデータは50年経たないとリリースされない。50年後に公開されたリストに村上春樹の名前が候補にさえ挙がっていなくても、私は全く驚かないけどね。
2.世界中で売れすぎているから
日本でも海外でもミリオンセラーとなっている著者なので、今さらノーベル賞なんてとらなくてもいいでしょ、という考え。ノーベル文学賞に「recognition」、要するに覚えめでたくあるべき作家を名指しする、という大義があるわけだ。
ノーベル文学賞授与によって世界中から注目されるようになることをアカデミーの人たちは知っている。だったらなぜ充分にその名を知られている村上春樹にさらなる知名度が必要だと思うだろうか?
ここ数年の受賞者を鑑みてもそれは明らかだろう。ヘルター・ミューラーなんて、受賞前に誰か読んでいた人いる? トマス・トランストローマーの詩なんて愛読してた人いる? 私はシンボルスカも、イェリネクも読んだことなかったよ。
3.日本という国の勢いがないから
残念ながら斜陽の国の文学より、BRICみたいなエマージング・マーケットの国から生まれてくる文学の方が力強く訴えるものがあるんだよなぁ。アジアで言えば、やっぱり最近は中国。今回の莫言の受賞でもそれはわかるでしょ。
内戦や戦争が続いていたり、貧困に喘いでいたり、差別に苦しむ厳しい環境の中で、市井の人たちがもがき、苦しみ、それを乗り越えていく物語が世界の人々を感動させるのだから。それを余すところなく伝えているような作家が受賞するのがあたりまえでしょ。
「美しい日本」を描いて評価された川端康成の時代は遠くなりにけり。
なんだかんだ言いつつ相変わらず豊かで、平和ボケしていて、じわじわといつまでも不況に甘んじているこの暗ーい日本から生まれるストーリーに世界の人たちを感動させるチカラはない。国内の賞を取ったような作品でも、なんだか全体的にチマチマしているように感じるんだよね。
その中でも今おそらく、いちばん苦しい立場に置かれている世代と言えば、日本の若者なんだろうけど、残念ながらその若者が感じている焦燥みたいなものを日本以外の人が読んでも共感できるように描き続けている作家はいない気がする。それにノーベル文学賞は新人賞ではないので、それなりにキャリアを積んだ書き手じゃないともらえない。ってことは例え若者が若者の苦悩を描いたとしていても、今の時点では評価されないわけだ。
4.作風がポリティカルじゃないから
良くも悪くも、昨今のノーベル文学賞には政治的要素が強い。平和賞の次ぐらいに。
今回の莫言受賞も、暗に中国政府への体制批判が思いっきり込められているわけで。
その結果、スウェーデンという国からはほど遠い、独裁者や、アパルトヘイトや、共産主義下にある人たちが発信するストーリーが説得力を持つ。
それを考えると村上春樹はそれこそ、ずっと政治的カラーを排除した作風で知られていたわけだし、『ねじまき鳥クロニクル』でようやくノモンハン事件に触れたあたりから、彼も大人になったというか、作家活動が政治と無関係でいられないと感じたんではなかろうかと思う。
最近はイスラエルで反体制的なスピーチをしたり、今回の一連の反日紛争について新聞に寄稿するぐらい政治的発言をするようになってきたけれどね。
5.スウェーデン・アカデミーの意向や方針だと引っかからないから
アカデミーの協会員はもちろん皆さんは色々なエリアの知識人でみんなスウェーデンの人。日本の作品は翻訳されたもので読んでいるように思われがちだけど、実際は現地のスカウトに頼るしかないわけだ。
だから阿刀田高の「原語で読んでないくせに」云々という批判は的外れなんだよね。スウェーデン語や英語に翻訳されているかどうかは実はあまり関係ない。ちゃんとスウェーデン・アカデミーがその国の文学を評価・推薦できる人脈を持っているかで決まる。
去年はとうとう自国のスウェーデン人が受賞、統計的に今までもヨーロッパ偏重だったのをアカデミーが自ら認めて、これからはスカウトが手薄だったアフリカや中東、アジアをちゃんとカバーしていきたい、と発表しているわけでしょ? でも、日本なんて既にそれなりに「名誉白人」扱いだったから日本のスカウトがいないわけではない。偏重をなくしていこうというアカデミーの方針で日本が恩恵を受ける確率は低い。
そして今回は中国。アジアからはちゃんと出てるんだからという理由で、しばらくは日本人の受賞はないと思う。
来年は十中八九アフリカかイスラム圏の作家になると思うな。
最期にもう一言、「今年も受賞を逃す」なんて報道は、勝手に期待して勝手に間違えているマスコミの偏見で、実に失礼だと思う。
村上春樹だって私がここに書いたような「ノーベルにまつわる知見」は持っているだろうし、ノーベル賞が欲しいとも、取れそうだとも思ってないと思うよ。
ちなみに私はハルキ作品はそこそこ読んでる、ぐらい。英語と日本語で。好きでもキライでもない。やたらとモテる主人公が理解できないことが多い。『ねじまき鳥』と青豆ちゃんのキャラは好き。
一方で彼の書くエッセイはかなり好き。『やがて悲しき外国語』は同感できる部分が多かった。書くことに対する真摯な作家としての姿勢は尊敬している。
ケルト文化フェチなんで『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』が気に入ってご夫婦でサインしてもらったことがある。
そして一番ゆゆしき問題は、村上春樹以外に日本が総意で「この人こそ次のノーベル文学賞をとるべき」という人が出てこないことだ。
さらにそういう人がいたとして、先だってのJLPP仕分け問題のように、今の日本政府にはそういう人たちをプッシュするチカラも気持ちもないようだし、民間でそれができているとも思えない。
なんにもしないで村上春樹ばかりに期待するのは狡くない?という気持ちがいっそう私を苛立たせる。
執筆: この記事は大原ケイさんのブログ『Books and the City』からご寄稿いただきました。
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