村上春樹のファミリーヒストリーとは? 父との思い出や関係性を初めて綴ったエッセイ
1979年にデビューし、今では日本だけでなく世界中に多くのファンを持つ村上春樹。本書『猫を棄てる 父親について語るとき』は、村上氏が父親との思い出や関係性などを綴った回想記的なエッセイです。
たった100ページ程度という短さですが、これまで村上氏が自身の父親について語ることはほぼなかっただけに、彼のルーツを知ったり、より深く作品を理解したりするうえでは大きな意味を持つ一冊といえるかもしれません。
まず、興味をひかれるのが「猫を棄てる」というタイトル。これは冒頭に出てくるエピソードに由来します。村上氏の子ども時代の思い出のひとつとして紹介されているのが、父親と一緒に海辺に一匹の猫を棄てに行ったという話。二人で浜に猫を置いてさよならを言い、自転車でうちに帰ったところ、棄ててきたはずの猫が先回りしていて、二人を愛想よく出迎えたというのです。
そんな導入から、父親の生い立ちがとつとつと語られていきます。村上氏の父方の祖父は京都のお寺の住職であったこと。父親は六人兄弟の一人であったこと。二十歳のときに学業の途中で徴兵されたこと。その後に結婚し、それなりに温厚な父親、優秀な教師として過ごしたこと。しかし、村上氏が大人になってからは関係が疎遠になり、長年絶縁状態であったこと。そして2008年、父親は九十歳で亡くなったこと……。
なかでも父親の戦争体験については、かなりのウェイトが占められています。村上氏はあとがきで「僕がこの文章で書きたかったことのひとつは、戦争というものが一人の人間――ごく当たり前の名もなき市民だ――の生き方や精神をどれほど大きく深く変えてしまえるかということだ」(本書より)と記しています。
父親の従軍記録や戦地での体験について、すすんで知りたいとは思ってこなかったという村上氏。自身で具体的に調べることもなく、父親に聞くことも父親が話すこともなかったそうです。しかし、歴史は過去のものではなく、自身や次の世代にも何かしらの影響をもって受け継がれていくものであるという事実と向き合ったことで、村上氏が父親について書く決意をしたことが、読み進めていくうちにわかってきます。
ただし、戦争をメッセージとして書くのは、けっして本意ではなかったといいます。村上氏によると、「歴史の片隅にあるひとつの名もなき物語として、できるだけそのままの形で提示したかっただけだ」(本書より)とのこと。その作業を手助けする存在となったのが「猫」。「かつて僕のそばにいた何匹かの猫たちが、その物語の流れを裏側からそっと支えてくれた」とあとがきに書かれています。冒頭の猫のエピソードは、「歴史の片隅にあるひとつの名もなき物語」を示す、平凡な父と息子のなにげない日常を象徴するものだと言えるでしょう。
これまでと一味違うテイストの本書は、生粋の村上ファン以外にもおすすめしたい一冊です。台湾出身の女性イラストレーター・高妍(ガオ・イェン)さんによる挿絵も、なんともいえない懐かしさを醸し出していて、本書の魅力をいっそう高めているので、あわせて注目してみてください。
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