『千日の瑠璃』244日目——私は緑野だ。(丸山健二小説連載)
私は緑野だ。
木蔭に憩う少年世一の眼前に展開する、一点非の打ちどころがない緑野だ。私のただ中に身を置く歩き疲れた世一は、咲き匂うクローバーの花に包まれ、高音を張る春の鳥の微かな息遣いまでも鋭敏に感知し、数限りない虫けらどもの方図のない欲望を過大に評価する。そして、浩々たる天地の空隙にぎっしりと詰まった素粒子のひとつひとつを心眼で以て捉え、あるいは、まほろ町に馴化した植物の上に生動する色彩にあらためて見惚れる。
私は光と風の力を借りて、世一の好奇心を一層掻き立てる。早十二時を回った今、私のなかで別して不当な扱いを受けているものは何もない。身の毛がよだつ話も、筆舌に尽くし難い苦しみも、並外れて見劣りするものも、排斥しなくてはならないものもない。私は厳正中立な立場を守り、何者も異端者とは思わず、訪ねてくれた者にいちいち来意を訊いたり、しつこく実意を糺したりはしない。
幾多の曲折を経て成った私ではあるが、今はただ、至極平明な理論の上にゆったりと存在しているばかりだ。そして私は、森々と生い茂った大樹にもたれかかった世一とは昵懇の間柄にある。私たちはいずれも、堆積岩のなかの化石のように、あるいは、咳ひとつ聞えない会場のなかの聴衆のように、あるいはまた、耕耘機が走る畑でもうもうと舞いあがる砂塵のように、厳存しているのだ。だからどうした、などとさえずる鳥は一羽もいない。
(6・1・木)
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