『千日の瑠璃』232日目——私は倒影だ。(丸山健二小説連載)

 

私は倒影だ。

うたかた湖の北の入り江の奥まった水面にものの見事に映し出された、森林の倒影だ。樹齢数百年に及ぶ大木が立ち並ぶそこでは、ほとんど風の影響を受けず、おかげで私は反射して飛び交う光を残らず捉え、寸分の狂いもなく再現してみせることができる。鳥の羽毛一枚、草一本、アブラムシ一匹、花粉一個に至るまで正確に映し、そして、元大学教授の徒爾に終るかもしれぬ一生をも正しく映している。しかも、実像では絶対に識別できないものまでくっきりと映し出しているのだ。

くだらないことで朝っぱらから夫婦喧嘩をしてしまった苦々しさ、この世にいつまでも在ることの苛立ちと哀しみ、果てはこの歳まで生きてこられたことの喜び、そんなこんなを私は、草深い岸にしゃがみこんだまま動かない文学老年に見せてやる。彼も、彼がここまで乗ってきたボートも、すでに風景の一部と化して、おさまり返っている。

彼はまるで本のようにして私を見つめ、私のなかから本では決して得られない何かをつかみ取ろうとしている。だが、今のところはうまくいっていない。やむなく私は、普段は滅多にやらないことをやってみせる、心の底の底に潜む、まだ枯れてはいない欲望を映像として見せてやろうとする。しかし、幸運にも彼はそれを見ずにすんだ。森の奥からぬっと現われた、自分の胸のうちを覗きこんだりしないあの少年世一が、私に石を投げたからだ。
(5・20・土)

丸山健二×ガジェット通信

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