『千日の瑠璃』231日目——私はギプスだ。(丸山健二小説連載)

 

私はギプスだ。

娼婦の折れた腕の骨を固定し、併せて彼女の心をも安定させている、霊験灼かなギプスだ。しかし私は己れの役目を充分に果たしているとはいえない。また、湖畔の宿《三光鳥》の女将の親身な看病も、彼女があちこち駆けずり回って手に入れたシクラメンによく似た花も、悪徳に生きる長身の青年の報復の誓いも、オオルリのさえずりも、結局怪我人の気持ちを完全に鎮めることはできなかった。

腕の骨の次は脚の骨で、しまいには首の骨をへし折られてしまうかもしれない、と娼婦は思った。そして、遂に彼女は泣き叫び、まほろ町を出て行く、とわめいた。誰か傍にいてくれなければ今すぐ出て行く、と言った。女将が「あたしがついているでしょ」と言っても、青年が「おれが不寝番をするから心配するな」と言っても、娼婦の怯えは失せなかった。困り抜いた女将に、娼婦はこう言った。「よいっちゃんに会いたい」と。「どうしてあんな子に?」と女将。「誰なんだ、そいつは?」と青年。女将が説明を始めるやいなや青年は「ああ、あいつなら知ってる」と言って、表へ飛び出して行った。

三十分後に連れてこられた少年は、まず私を撫で回し、ついで、火傷を負った娼婦の乳房にそっと触れた。それから彼は黙って縁側から出て行き、蝶のあとを追ってどこかへ行ってしまった。まもなく私のなかの痛みやら混乱やらがすっとおさまって、娼婦は眠った。
(5・19・金)

丸山健二×ガジェット通信

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