『千日の瑠璃』181日目——私はピアノだ。(丸山健二小説連載)

 

私はピアノだ。

地元の造り酒屋が儲け過ぎという蔭口を少しでも和らげようと、まほろ町の中学校へ寄贈したグランド型のピアノだ。新学期を間近に控えたきょう、新任の音楽の教師が私のところへ挨拶にやってきた。彼はまず調律が正しいかどうかを確かめ、まったく狂いがないとわかると大いに気をよくして、山国の春にふさわしい曲ばかり次々に弾き始めた。大した演奏家だった。少なくとも私の知る限りでは、彼の腕が最もたしかだった。だからといって、田舎教師にしておくのが惜しいと思えるほどではなかった。

この春まはろ町へ引っ越してきた彼は、中央と地方のあまりの差異に驚き、早くも落胆して、すっかりやる気をなくしていた。それでも、所在なさを紛らわすには打ってつけの私に出会えたことで、いくらか元気を取り戻したようだ。私さえいてくれたら当分のあいだは堪えられそうだ、と彼は言ってくれた。それは私にしても同じことだった。彼の心中を波み取った私は、窓の向うで銀色に輝くうたかた湖の光や、花畑を返して施肥をする園芸部の女子生徒の笑いさざめく声や、優劣をつけ難い野鳥のさえずりという春には不可欠な、心が蕩ける調べをふんだんにあしらった。

だが、ぴかぴかに磨きこまれた私の表面に突然映し出された少年が、すべての音を乱してしまった。「あっ」と小さく叫んだ教師は、棹立ちになった馬のような姿勢をいつまでも保った。
(3・30・木)

丸山健二×ガジェット通信

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