ラヴクラフトを切歯扼腕させる十六篇
H・P・ラヴクラフトの系譜に連なるフィクションは、ひとつの文芸ジャンルを形成するほどである。ご本尊はその気はなかったのだろうけれど、彼の死後、オーガスト・ダーレスによって体系化された「クトゥルー神話」が、合い言葉さえ唱えればだれでも入会できる結社というか、わかりやすいアイテムに満ちた二次創作製造エンジンのようなもので、それが自走的に機能しているのだ。
本書の編者エレン・ダトロウは慧眼の編集者だけに(一九八〇年代半ばのサイバーパンクの隆盛も彼女の功績が大きい)、「わたしはラヴクラフトのパスティーシュを大量に読んだが、ほとんどは—-少なくともわたしにとっては—-ありふれていて、新しさを感じられるものはまずなかった」(本書「はしがき」)と素っ気ない。その彼女が、パスティーシュを避け、「ラヴクラフトに影響を受けた小説を書きそうにないと思われている作家の作品」「彼(ラヴクラフト)を墓の下で切歯扼腕させるようなクトゥルー神話の使い方をしている作品」を選んだのが、この『ラヴクラフトの怪物たち』である。
「ラヴクラフトに影響を受けた小説を書きそうにないと思われている作家」という条件のほうは、「うーん、そうかなあ?」とも首を傾げる部分もあるのだけど、まあ、野暮なことは言わずにおこう。さすがダトロウ、その意気やよし。
収録されている小説十六編(ほかに詩が二篇)のうち、とびぬけて面白いのは、ハワード・ウォルドロップ&スティーヴン・アトリー「昏い世界を極から極へ」。地球空洞説とフランケンシュタインの怪物を主題材として、ポー、メルヴィル、ヴェルヌなどと接続し、物語がまさに怪物的にふくれあがっていく。クトゥルー神話を隠し味のように効かせているところが、また憎い。
小説の巧さにおいて、ニール・ゲイマン「世界が再び終わる日」に舌を巻く。インスマス(クトゥルー神話に登場する港町)に来た人狼の一人称で語られる、グルーミーな物語だ。昨晩の記憶を失い、人間の姿で目覚めた語り手が、吐き戻した胃液のなかに、犬の前肢、トマトの皮、刻んだニンジン、スイートコーン、噛み砕いた生の肉切れにまじって、子どもの指を発見する冒頭部分が印象的。この情景に、その先の展開が暗示されている。
キム・ニューマン「三時十五分前」も、全身の毛が逆立つ衝撃作だ。海沿いにたたずむ寂れた深夜営業のダイナー、アルバイト店員(レポートのために『白鯨』を読んでいる学生)がひとりきりしかいない。彼が語り手だ。どうせ客なんてこないと思っていると、奇妙ななりの妊婦が入ってきて、酒を注文する。自分が飲みたいのではなく、胎児が欲しているのだという。店員は軽くいなそうとするが、やりとりはしだいに不穏さを増していって……。
フレッド・チャペル「残存者たち」では、黄金期のアメリカSFを思わせる宇宙小説。〈古きもの〉に滅ぼされた惑星のたった四人の生存者が〈光輝同盟〉傘下の救出要員となり、〈船〉に乗って、いままさに〈古きもの〉に蹂躙されている太陽系第三惑星テラへと赴く。〈船〉からの遠隔探索によって、テラで生き延びている生存者のなかに精神感応力を備えた娘がいるとわかるが、彼女は自閉症だった。〈船〉の救出要員たちの視点と、地球側の生存者の視点とが並行して物語が進む。
ニック・ママタス「語り得ぬものについて語るとき我々の語ること」も、邪神によって壊滅させられたのちの世界を舞台にしている。洞窟に息をひそめるように隠れ住む、ジェイス、メリッサ、ステファンのやりとりが描かれる。このタイトルはレイモンド・カーヴァー「愛について語るとき我々の語ること」のアリュージョンで、内容的にも、カーヴァー作品のように、救いがなく、慰めもない。
邦訳は上下巻。上巻には東雅夫さんの、下巻には菊地秀行さんの解説がついている。どちらも独自の視点による示唆に富んだもので、怪奇幻想ファンには嬉しい。
(牧眞司)
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