斬新なアイデアで展開される、決定論と自由意志をめぐる哲学的洞察

斬新なアイデアで展開される、決定論と自由意志をめぐる哲学的洞察

 今年五月に原書刊行されたばかりのテッド・チャンの第二短編集。この早さでの邦訳は嬉しい。

 収録されているのは、2005年以降に発表された九篇。うち二篇が書き下ろしだ。

 ゼンマイ式全自動乳母による育児(見方を変えればスポイル)をめぐる「デイシー式全自動ナニー」もあれば、主による天地創造が事実とされる世界を舞台に天文学上の発見によって地球の特権性が揺らぐ神学SF「オムパロス」もあり、作品ごとにテイストはさまざまだが、一冊を通して読むと、チャンにとってもっとも重要なテーマが「決定論と自由意志」にあることがわかる。

 もっとも端的なかたちで示されているのは、最高権威の学術誌〈ネイチャー〉に発表されたショートショート「予期される未来」だ。信号を過去へ送る回路を搭載した予言機は、外見上はボタン一個と緑のLEDがついたゲーム機にすぎない。動作も単純だ。つまり、ボタンを押す一秒前にライトが光る。いや、操作者の感覚でいえば、ライトがついたら必ず—-どんなことがあっても—-一秒後にボタンを押してしまう。日常的な意味での自由意志に反する現象であり、さまざまな反応を呼び起こす。

 この作品では「自由意志は存在しない」という概念が、予言機なる具体的ガジェットとして体現される。しかし、テッド・チャンの洞察が優れているのは、自由意志を否定してみせる手つきにではなく、私たちがあまりに自明に捉えている「自由意志」そのものを根本から問い直す姿勢にある。

 この短篇集の掉尾を飾る書き下ろし作品「不安は自由のめまい」では、「予期される未来」から一歩も二歩も精緻化したテーマ展開がされる。物語の中核をなすガジェットは「プリズム」と呼ばれる歴史線分岐/通信装置だ。赤と青のLEDがついており、起動すると装置内で量子的サイコロが振られ、現実がふたつに分岐する。赤のランプがついた世界と、青のランプがついた世界。それ以降、両世界はプリズムを介して情報のやりとりができる。

 ポイントは、もともと多世界があるのではなく、プリズムの起動によって分岐することだ。つまり、プリズムの数だけ分岐が起こり、分岐した現実はそのプリズムによってしか媒介されない。プリズムには容量的限界があり、それが尽きると分岐世界間の通信は不能となる。ひとびとはプリズムをいかに用い、そこからどのような価値・願望・葛藤・依存が生まれるか? プリズムのアイデアを自由意志の問題へフォーカスすれば、自分がおこなう決断は唯一無二のものではなくなる。分岐した別の現実には、違う決断をした自分が生きているのだ。

 まったく別な設定で自由意志のありようにアプローチするのが、表題作「息吹」だ。アルゴンの気圧勾配によって駆動する小宇宙の物語で、人間はいっさい登場しない。語り手は金属製の身体をした研究者「わたし」である。わたしは自分たちの意識と記憶の機序に強い関心を持ち、自作のマニュピュレータで自分の頭蓋を解剖する。一般的な仮説によれば、記憶は脳内の薄箔に刻みこまれ、時間経過によって箔の配置が乱れて忘却が起こる。しかし、わたしはその仮説が間違っていることを発見した。記憶はスタティックに固定化されているのではなく、ダイナミックなパターンとして絶え間なく揺らいでいる。この発見の情景が感動的だ。まったく自律したメカニズムであるにもかかわらず、人間の意識のありかたにも通じる。

 ただし、それは物語のひとつの局面にすぎない。脳内の微細な機序についての知見が、やがて小宇宙全体を待ちうける運命という大きなヴィジョンへつながっていく。結末で敷衍されるのは、生命と知性の本質についての思惟だ。

 意識が神秘的なものではなく電気的化学的に構成されるものであり、物理宇宙のおけるすべての現象と同様に因果の連鎖で定まる(決定論)としても、なお、知性は「自分がおこなう決断」(自由意志)を放棄しえない。

 知的昂奮や情緒的感動のみならず哲学の領域へと読者を導くSF。テッド・チャンは、スタニスワフ・レムに肩を並べる強度に達している。

(牧眞司)

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