好きなことができない「精神的な死」を避けるため、3年間“死にもの狂い”で働いた──元プロボクサーのクリエイター・伊藤康一の仕事論(2)

好きなことができない「精神的な死」を避けるため、3年間“死にもの狂い”で働いた──元プロボクサーのクリエイター・伊藤康一の仕事論(2)

熱狂的なファンをもつTシャツとハンコで成功した「伊藤製作所」代表の伊藤康一さんにビジネスを成功させた理由や仕事観などを全5回に渡って聞く連載。第2回は、伊藤さんがTシャツで生きていくと決意した理由や目標通り3年で生計を立てられるまでになった経緯に迫ります。

プロフィール

伊藤 康一(いとう・こういち)

1974年、愛知県生まれ。大学3年生の時にプロボクサーとしてデビュー。半年後、引退。実家に戻ってWebサイトの構築に励む。半年後、再び上京。フリーターに。この頃、「伊藤製作所」を立ち上げる。2005年、再び実家に戻り個人でTシャツ屋を始める。攻めたデザインで徐々にファンを増やす。2008年、再び上京。谷中に実店舗を開店。2009年「邪悪なハンコ屋 しにものぐるい」を開店。SNSのつぶやきをきっかけに大ヒット。

戦うTシャツ屋 伊藤製作所 https://www.ito51.net/

邪悪なハンコ屋 しにものぐるい https://www.ito51.com/

根拠のない自信で、「Tシャツで食っていける」

──フリーターからなぜTシャツ屋をやろうと思ったんですか?

焦って就活していたのとちょうど同じ時期に、デザインフェスタというイベントに行ったんです。そこでは自分で好きな物を作って、売っているたくさんのクリエーターさんが出店していました。いろんな人に話を聞いたり、調べたりしていく中で、例えば雑貨を手作りしている人の場合、何時間もかけて作ったものでもそんなに高く販売できないので、食べていくのは相当難しそうだったんですね。でもTシャツは、イラストさえ描ければ、後は印刷屋さんがプリントしてくれて量産ができる。自分の能力も合わせて考えるとTシャツだと食べていける可能性があるなと思ったんです。

その頃知り合った人から「個人でTシャツ作って食べていけるのは、せいぜいトップ10まで」と言われたのですが、その時、「あぁ、自分ならトップ3は難しいかもしれないけど、トップ10ならいけるな」となぜか思ったんです(笑)。

──自分なら売れるものを作れるという自信があったということですか?

完全に根拠のない自信です。ボクシングを始める時に、普通に世界チャンピオンになれると思ったのと同じ思考です(笑)。

余談ですが、僕が高校生の頃、姉が地元岡崎市の「ミス岡崎」になっているんですが、自薦なんですよ。ミス岡崎になれたことより、自分からミスコンに出場できちゃう、その自信がすごいなって思いました(笑)。だから僕の根拠のない自信もDNAというか家系かなと思いますね。

「戦うTシャツ屋 伊藤製作所」設立

──「根拠のない自信」をもてるってリスクもありますが貴重な能力だと思います。それがもてない人はなかなか行動できないというマイナス面もありますからね。Tシャツ制作はどのように始めたのですか?

29歳の時、「戦うTシャツ屋 伊藤製作所」という屋号で、東京の自宅マンションの一室で始めました。先程もお話した通り、フリーター時代に遊びで作った「伊藤製作所」をそのまま使いました。「戦う」とつけたのは、プロボクサーだったので、引退しても戦う気持ちを忘れずにやっていこうという思いがあったような気がします。この時はまだバイトと掛け持ちでやっていました。

──立ち上げ当初は、コンセプトというかどんなTシャツを作ろうと思っていたのですか?

「デザインの種類は絞った方がいい」とアドバイスされたので、自分がやっていたボクシングに関するネタでTシャツを作りました。でも、全然売れなくて(笑)。

それで仕方ないので、とにかく自分が楽しくておもしろいと思えるTシャツを作ろうと思いました。当初はボクシングのTシャツも含めて8種類のTシャツを作ったのですが、その中で木彫りパンダのイラストのTシャツだけが飛び抜けて売れました。デザインフェスタなどのイベントに出ても、他の7種類は全然売れなかったのですが、この木彫りパンダTシャツが売れない分をすべてカバーしてくれるくらい売れたんです。そのおかげで食べていけるようになったと思っているので、いまだに木彫りパンダTシャツは残しています。

▲木彫りパンダTシャツ(3500円)。ジャージもある(6900円)

その後、ネットショップも作って、数ヵ月後に注文が1件入りました。「0と1は違う! これでイケる! Tシャツだけでやっていこう!」と思ったんです(笑)。

──なぜパンダをモチーフにした商品が多いのかなと思っていたのですが、あのパンダにそんなドラマがあったとは(笑)。1枚売れてこれでイケると思ったというのもすごいですね。

これも根拠のない自信ですね(笑)。でも、この時は、「できる・できないじゃなくて、やるか・やらないかだ!」って思ってました。「もう、やるしかない!」と。それで、Tシャツで食べていくと覚悟を決めて、すべての時間と労力をTシャツ作りに投入しようと、アルバイトを辞めて、30歳でまた愛知の実家に戻ったんです。親のスネをかじらせてもらいながら、Tシャツとそれを売るためのWebサイトの作り込みに没頭しました。

プライドをかなぐり捨ててでもやる

──30歳になっても親のスネをかじることに抵抗とか葛藤はなかったですか?

やはり葛藤はかなりありましたよ。当時はあまり親とも仲良くなかったので、その親のスネをかじらせてもらうのは悔しかったです。でも、今僕がもってるもので、Tシャツで最短で食べていけるようになるには、悔しかろうが何だろうが親のスネをかじらせてもらって、生活の不安なく、起きてる間ずっとTシャツのことをやれる環境を作るのが最短だと考えたので。やりたいことの優先順位一位を実現させたいなら、変なプライドは捨てて、やるしかないですよね。

──Tシャツで食って行きたいと言った時、ご両親の反応は?

当然、大反対されました。心配もされました。大学まで出してやった息子が30歳になってもフラフラしてて、7年ぶりに実家に帰ってきたと思ったら「俺は自分で作ったTシャツをネットで売って食べていくんだ~」って言ってるんですから。2004年当時はまだまだネットショップが当たり前ではなかったので、僕の言ってることが想像できなかったんだと思います。母には「Tシャツは趣味でいいから、アルバイトしたら?」と言われました。

死の宣告を受けているような覚悟で

──実家に戻ってからはどんな感じでTシャツづくりを?

この時、世間的には30歳で就職経験なしのニートだったので、もしTシャツがうまくいかなくて、3年後も食べていけてなかったら、そこから改めて就活して自分がやりたい仕事でどこかに採用されるのは無理だろうなと思いました。そしたら近くの自動車工場で期間工として働くしかない。好きなことができないことが何よりつらいと考えていたので、そうなったら精神的な死が待ってるな、と感じていました。肉体的な死より、この精神的な死が恐かった。だからこの時は『デスノート』のリュークみたいな死神から「Tシャツで食べていけなかったら、おまえ、死ぬよ」と宣告されているような感覚でやってました。

だから3年で絶対食べていけるようになると決めてからは、死にものぐるいで頑張りました。死にたくないと思ったら、誰だって頑張りますよね。

──具体的にはどんな感じで頑張っていたのですか?

毎日、朝起きて寝るまでずっとパソコンの前に座って、主にWebサイトを作り込む作業をしていました。毎日十数時間やって、眠くなるギリギリまで作業をして、もうこれ以上はダメだ! と思ったらパソコンの電源を落として、寝室まで何とか行ってベッドに倒れ込んで意識を失うという生活でした。

──壮絶ですね。Tシャツのデザインよりサイトの作り込みがメインだったのは意外です。

どんな商品でも、営業しなければ売れませんよね。でも、僕はいわゆる営業はとてもできないので、僕の代わりに営業してくれるWebサイトが大事だと考えて、とにかく作り込むことに注力したんです。このWebサイトづくりもフリーター時代に独学で磨いたスキルが活きました。

もちろんTシャツのデザインもやってましたが、結局仕事って楽しいところが5%くらいで、あとの95%はひたすら地道な作業の繰り返しですよね。でも、その5%の喜びがあるから、他の95%もやり切れるって感じで。Tシャツで言えば、デザインを作るのはその5%でした。

自分自身がおもしろいと思うものを

──Tシャツのデザインでこだわった点は?

一番大事にしているのは、まず僕自身がおもしろいと思えるかどうかです。万人受けを狙わず、おもしろいとかほしいと思ってもらえる人だけに買ってもらえればよいと思ってデザインしていました。それは今も同じです。流行っているから、売れそうだから、万人受けしそうだからという考えで作ると失敗するので、そうならないように気をつけています。だからタピオカミルクティーのTシャツは作りません(笑)。

また、僕たちのTシャツはコミュニケーションツールだと定義しています。見た人が思わず突っ込まずにはいられなくなるようなデザインなので、そこから会話が始まってくれるといいなと思っています。

──それはすごくよくわかります。僕も伊藤製作所のTシャツを全然売れなかったというボクシング系2枚を含めて5枚ほど持っているのですが、着て行ったら絶対ウケたり突っ込まれたりして、盛り上がります。

そう言ってもらえるとすごくうれしいです。

──それ以外にやっていたことは?

地道にデザインフェスタなどのリアルイベントに出店して、伊藤製作所を知ってもらう努力をしていました。1年目は超自転車操業だったので「このイベントでTシャツをあと何枚売らないと今回作った分のプリント代が支払えない!」と頭の中で計算しながら売っていました。イベントに出店するにも交通費や出店費などけっこう経費がかかりますからね。3年以内にTシャツで食べられるようにならないと死ぬと思っていたので、かなり焦っていました。だからこそ必死になれたわけですが。

そうやってイベント出店を続けて口コミで広まったり、Webサイトも作り込んでいくうちに、徐々に売り上げは伸びていきました。

当時のイベントで、いまだに覚えている出来事があります。ある時、同じようにTシャツ屋として出店してる隣のブースの人から、僕のブースがすごい勢いで売れるので、すごいですねと言ってもらえました。でもそれは当然のことで、その人は平日はちゃんとサラリーマンをやって、余暇を利用して趣味でTシャツを作っていました。だから、たとえば僕の方が3倍売れてたとしても、かけてる時間は3倍以上だから、むしろサラリーマンで趣味でTシャツやってるその人の方がすごい。僕は負けてるなって思っていました。

3年目で800万。目標達成

──具体的な売り上げ高の推移は?

1年目が75万円だったのが、2年目には200万円、3年目には800万円まで伸びました。食べていくという目標は予定通り3年目に達成できました。

──すごいですね。なぜそんなに伸びたのですか?

もう、単純に、「地道にやったから」に尽きると思います。3年目は1、2年目にやったことが遅れて効いてきたのかなって思います。加えて大きかったのは、僕のような個人でTシャツを作っている人たちが増えてきて、インディーズTシャツブームというのがあったようなんですが、その波にうまく乗れたこともあります。僕も始めるのが1年遅かったら食べていけなかった可能性が高いです。僕より前に始めて食べていけてる人は何人も知ってますが、後に始めた人は相当難しいという印象です。だからタイミング的にはギリギリ間に合ってラッキーでした。

──成功するためにはタイミングや運も大事ですよね。とはいえそれも伊藤さんが行動したからつかめたわけで。3年以内にTシャツで食っていけるだけの金を稼ぐという目標を達成したわけですが、その時の気持ちは?

毎日必死でやってたから、後で売り上げを計算した時に「ああ、そういえば食べていけるようになってるわ」って感じで、特別な感慨はなかったですね。「やったぞ!」というよりは「これで期間工にならずに済んだ。よかった」という安堵の気持ちの方が強かったです。

 

死に物狂いのがむしゃらな努力で見事目標を達成した伊藤さん。次回は谷中に実店舗を出した理由や、ハンコ屋を始めた経緯、ヒットした理由などを語っていただきます。

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第3回記事『「好きなこと・得意なこと・求められること」3つの円が重なる部分をしっかり探すことが大事』はこちら 取材・文・写真:山下久猛

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