就活は一切せず、プロボクサーになるも半年で引退。大きな「挫折感」の中、半年実家に引きこもり…──元プロボクサーのクリエイター・伊藤康一の仕事論(1)

就活は一切せず、プロボクサーになるも半年で引退。大きな「挫折感」の中、半年実家に引きこもり…──元プロボクサーのクリエイター・伊藤康一の仕事論(1)

多くの人々を魅了するTシャツやハンコを作成・販売している伊藤製作所。谷中銀座商店街にある店舗は連日国内外の人々で賑わっている。特に味のあるイラストで作ったハンコ「邪悪なハンコ屋 しにものぐるい」は大ヒット。買ったことがあるという人も多いのではないだろうか。

その代表でクリエイターの伊藤康一さんは、最初の職業がプロボクサーという異色の経歴の持ち主。なぜプロボクサーからクリエイター経営者になったのか。その生い立ちからビジネスを成功させた理由、仕事観などに全5回に渡って迫る。第1回はプロボクサー時代ややりたいことがわからず迷走していた苦しい時期について語ってもらった。

プロフィール

伊藤 康一(いとう・こういち)

1974年、愛知県生まれ。大学3年生の時にプロボクサーとしてデビュー。半年後、引退。実家に戻ってWebサイトの構築に励む。半年後、再び上京。フリーターに。この頃、「伊藤製作所」を立ち上げる。2005年、再び実家に戻り個人でTシャツ屋を始める。攻めたデザインで徐々にファンを増やす。2008年、再び上京。谷中に実店舗を開店。2009年「邪悪なハンコ屋 しにものぐるい」を開店。SNSのつぶやきをきっかけに大ヒット。

戦うTシャツ屋 伊藤製作所 https://www.ito51.net/

邪悪なハンコ屋 しにものぐるい https://www.ito51.com/

『あしたのジョー』にあこがれて

──子どもの頃から経営者やクリエイターになりたいと思っていたのですか?

いえいえ、小学2年生の時、「将来の夢」というお題の作文では「漫画家かプロ野球選手になりたい」と書きました。結局なったのはTシャツ屋、ハンコ屋で絵を描く仕事ではあります。20代の頃はプロボクサーだった時期もあるので一応プロスポーツ選手にもなれました。なので、どちらも努力で何とかなる範囲で叶ったという感じですね(笑)。

中学時代は、野球部の顧問が理科の先生で理解もあったので、夏休みの自由研究で大リーグボール養成ギブスを作りました。もちろん理科の成績は5でしたよ(笑)。

──その頃からクリエイターの片鱗がうかがえますね。プロボクサーだった時期もあるということですが、始めた時期ときっかけは?

中学3年生の時、友人が貸してくれた『あしたのジョー』に思いっきり影響されました。単純に主人公の矢吹丈になりたいって思ったし、人を殴ってほめられる職業ってすごいなと思って、高2の時、地元の愛知県岡崎市のボクシングジムに入門しました。もしその時読んだのが空手の漫画だったら空手をやってたと思います。男の子ってたいてい格闘技にあこがれると思うんですけど、そこで本当に始めちゃった感じです(笑)。

──本格的に打ち込み始めたのは?

高校卒業後、大学入学で上京してからです。やるからには世界を目指そうと思って、これまで世界チャンピオンを最も多く輩出していた協栄ジムに入門。毎日通って本格的に練習を始めました。そのまま大学3年生の時にプロテストに受かって合格して、プロボクサーになりました。

▲大学3年生からプロボクサーとしてリングで戦っていた伊藤さん

好きでやってることは「努力」じゃない

──ボクシングの練習ってかなりキツいですよね。実際にやってみてどうでしたか?

もちろん、キツいと言えばキツかったですけど、望んでやってることですし、嫌だったら行かなきゃいいわけですし、たぶん楽しかったんだと思います。だから練習がつらいから辞めたいと思ったことは一度もありません。スパーリングして殴られて鼻血が出ても、まぁボクシングしてたらそんなもんだろうなって。

目標があって、そこに向かってる時のつらさや努力って、あんまり苦にならないんです。というか、スポーツしてる人ってみんなそうだと思うんですけど、すぐに上達することなんてないから、将来の自分のこうありたいって姿を頭の中で思い描いて、毎日地道な練習を続けてますよね。僕が特別というわけでは全くなく。周囲から見れば努力という言葉になりますけど、本人にとっては努力というよりは、好きでやってること、やりたくてやってることで。もちろん、殴られると痛いのでなるべく殴られない方がいいですが(笑)。例えば野球をちょっと練習してイチローみたいになれない! って言っても、そりゃそうだろ! ってなると思うんですよ(笑)。

──確かにそのとおりですね。ボクシングの魅力は?

もう、なんでしょうかね。よくわかんないですね。殴り合って、どっちが強いか決めるっていう、もう、原始的ですけど、そういう何か魅力を感じるんでしょうね。もちろん今でも好きですし、近所のジムでトレーニングしてるんですよ。

──光り輝くリングの上で、大勢の観客が見てる前で全力で戦って勝った時も最高なのでは?

もちろん勝てればうれしいですが、初めて勝った時強烈に思ったのが、これは自分の力で勝てたんじゃないということです。そもそも、鍛えてくれるトレーナーをはじめ、練習に協力してくれるスパーリングパートナーなどジムの仲間たちの協力がなければ試合に万全で臨むこともできません。だから勝った瞬間、まず思ったのがトレーナーのおかげで勝てた、ありがとうという感謝の気持ち。協力してくれたみんなのおかげで勝てたと思ったんです。ボクシングって個人戦だけど、実は団体戦だなって思いました。

一番うれしかったのは先輩の勝利

──ボクサー時代、一番うれしかったエピソードは?

僕は左利きなんですけど、ほかのスポーツと同じでボクシングもサウスポーの選手って少ないんですね。当時のジムにもサウスポーの選手はほとんどいませんでした。だから入門して3ヵ月くらいで、サウスポーと試合が決まった日本ランカーの先輩の練習相手に起用されて、試合に向けてほぼ毎日スパーリングしていました。でも、ボディ、特に右脇腹のレバー(肝臓)にきれいにパンチが入ると、おなかがぎゅって縮んで立っていられなくなってダウンしてしまうんですよ。それで、何度も僕がダウンしてたので、先輩が途中から寸止めするんです。あんまり本気出すと僕がすぐに動けなくなるから。僕も必死でやってましたけど、先輩が試合に向けて、本気でパンチ打つ練習ができないから申し訳ないなといつも思っていました。

本番の試合ではその先輩が勝ちました。試合後、リングを降りてきて、たくさんの人から祝福されていて、僕も興奮しながらも、恐れ多くて遠くから見ていました。そしたらその先輩が僕を見つけた途端、ちょこちょこっと僕のところに歩いてきて「ありがとう、ありがとう。おかげで勝てたよ」ってわざわざ言いに来てくれたんです。その時がボクシングやってた中で一番うれしいと感じた瞬間でした。僕でも役に立てたんだって思えて、自分が勝った時よりもうれしかった。いい人っぽく見せようとしてこんなこと言ってると思われるかもしれませんが、これ本当なんです(笑)。

就活を一切せず、そのままボクシングの道に

──プロボクサーになったのは大学3年生の時ということですが、就職は一切、考えなかったのですか?

はい。当時はプロボクサーで生きていくことしか頭になかったので、就職活動は一切しませんでした。今から考えると、きちんと就職して、仕事でボクシングにすべての時間を使えないとしても、とにかく続けられる環境を選んだ方がよかったと思います。だから、今通ってるボクシングジムで、現役の選手には、とにかく続けられるように頑張ってね、と言ってます。

──プロボクサーはいつまで続けたのですか?

大学卒業後、半年後くらいにやった試合までです。自分としては限界を超えるくらいの努力をしたつもりでも、その試合に負けてしまいました。それで、ありがちな表現ですが、張り詰めていた糸がプツンと切れてしまったような状態になっちゃって。それまでの戦績が5戦2勝2敗、その試合で負けて2勝3敗。これだけ頑張っても、やっと勝ったり負けたり。自分にボクシングの才能がないことは、やってるうちに自覚できていたんですが、その試合で負けて先が見えないと決定的に感じてしまって。気持ちとして続けることができませんでした。

──引退した時の気持ちは?

ものすごい挫折感を味わいました。これも今だから簡単に「挫折しました」と言えますが、5年くらいは自分からは言えないほどその挫折感を引きずっていました。当時は自分からボクシングを取ったら何も残らないと思っていたので、自分には何もなくなっちゃったなと。

──その後はどうしたんですか?

愛知県の実家に帰って半年くらい引きこもり生活をしました。実家に帰ってからも、もう一回ボクシングに復帰しようかなとウジウジ悩んだりしたと思うんですけど、この当時のことはあんまり覚えてないんです。よく覚えているのは、なぜか趣味で作ったWebサイトの更新作業を毎日忙しい忙しいと思いながらやっていたことです。

──そのWebサイトはいつ頃作ったのですか?

最初は大学時代に友人に教えてもらって作りました。それで本を買ってきて独学で勉強して。やり始めると楽しくてのめり込みました。元々おもしろいことを考えて作るのが好きなんです。アクセスも全然ないサイトだったので、今だと考えられないですけど、なぜかサイトの更新を仕事のようにやってました。引きこもりで、特に世の中に貢献してないけど、忙しいと感じているという。今考えると当時の自分はなかなかヤバイやつですね(笑)。

半年くらいそんなことを続けて、だんだんと気持ちも復活してきたので、今度はちゃんと就職しようと思い、東京に戻りました。

就職せず、フリーターに

──就活はちゃんとしたんですか?

いや、結局まともに就活せず、スポーツクラブやファミレス、アルバイト情報誌の制作など、いろんなアルバイトを6年ほどしました。いわゆるフリーターですね。

──就職してないじゃないですか(笑)。なぜ就職しなかったのですか?

最初はとりあえずフリーターで食いつなぎながら就活してちゃんと働こうと思っていたんですよ。でも結局就活すらしなかった。なんなんでしょうね。わかんないですね。当時の自分、何か嫌だったんでしょうね。今考えたら絶対就職した方がいいと思うんですが(笑)。

そういえば今でもあんまり笑えないくらいの笑い話ですけど、当時付き合ってた女の子がイラストレーターを目指していると言いながら、出版社に作品を持って売り込みに行くなど、そのための行動を一切していなかったんですよ。なのにある日「私、イラストレーターをあきらめようかな」と言い出して。「いや、何もやってないじゃん?」とけっこう衝撃でした。でも僕も就職したいと言いながら就活していなかったので、この彼女と全く同じなんですよね。似た者同士がくっつくんだなと(笑)。

あ、でもこのフリーター時代の経験が全く役に立たなかったというわけじゃないんです。アルバイト情報誌の原稿作りのアルバイトでは、レイアウトや画像加工をたくさんしたり、絵も描かせてもらっていました。その時、大学時代に身につけたPhotoshopやIllustratorなどの技術を活かせて仕事ができたのですが、日々、仕事で使わせてもらうとどんどん上達します。それが今のTシャツやハンコ作りに直結して役に立っているんです。

「伊藤製作所」、誕生

この時期に「伊藤製作所」と名乗って、完全に趣味でなんですが、おもしろいと思うものを実際に作っては遊んでいました。例えば、熊の置物を白黒で塗ってパンダにしたり、人間が付けられる大きなエリザベスカラーを作ったりして、それを写真に撮って、バイト先とか、ごく少ないまわりの人に見せて遊んでいました。

──なるほど(笑)。就活しなかったのは、フリーターでも食べていけたし、まだ若いし、そんなにすぐ就職しなきゃいけないとは思わなかったってことですか? 将来のことを真剣に考えていなかったとか?

将来のことに関しては、すごく真剣に考えていたと思いますし、かなり焦っていたと思います。ただ、行動してなかっただけですね(笑)。当時の自分をフォローしてあげるとしたら、やりたいことが見つかってなかったから、頑張れなかったんだね、仕方ないね、とも言えますけど。ただただ行動してないだけですね。もう、典型的な、行動しないからなにも変わんねぇんだよ! という、結果が出ない人の見本みたいな感じです。

このフリーターの時期が精神的に一番つらかったです。目標があればそれに向かって頑張れるけど、目標もないし何をすればよいのかわからないので、どっちに向かって頑張ったらいいかわからない。それがとても苦しかったです。

30歳を目前にすると誰でもいろいろ考えると思うんですけど、僕も29歳になり、いよいよこのままではヤバイと焦り、就活もちょっとしてみました。2社だけですけど。その中で販売促進用グッズの企画制作をしている会社がありました。漠然とですが、おもしろいことを考える仕事がしたいと思っていたので、その仕事はとても魅力的でした。面接では社長は僕のことをとてもおもしろがってくれたんですけど、もう1人の女性の面接官、今思うと社長の奥さんなのかなと思うのですが、その方に、社会人としての常識がないと雇えないと言われて、結局落とされました。

僕を採用しないなんてもったいない

──「社会人としての常識がない」というのはどの辺りで?

たぶん面接にスーツにネクタイで行かなかったのがダメだったんだと思います(笑)。その時の僕はポロシャツにチノパン、スニーカーでした。面接でリラックスしてうまく話せるようにと考えて、あえてスーツで行かないという選択をしたわけです。でも襟の付いたポロシャツを着ようと一応服装も考えた上で面接に行ったので、そこまでダメ出しされるとは思ってませんでした。ただ、今考えると落ちてよかったですし、僕を採用しないなんてもったいないことをしたと思います(笑)。

──なぜですか?(笑)

そういう企画系の会社って、アイデアこそが大事だと思うんですが、アイデアを出せる能力って、そう簡単には鍛えられないじゃないですか。だから採用で重視すべきはアイデアを出せる能力だったんじゃないかと思うんですよね。でも、社会人のマナーだったら数ヶ月あれば身について、例えば「どっちが御社でどっちが弊社だっけ?」と迷わなくなるでしょうし。

採用はいろいろな事情があると思うので、単純に僕の能力が足りないと思われただけかもしれないですし、本当のところはわかりません。ただ、もし採用されてたら、その仕事は楽しんでやってたと思います。そしたらずっとサラリーマンをしてたと思うので、結果的には落とされてよかったです(笑)。

そういえばですが、この前、息子とガチャガチャをやったら、その会社が企画した商品だというのがわかって、「あ!」って思いました(笑)。

 

その後、伊藤さんは29歳の時にTシャツで生きていく道を選び、絶対に3年で食えるようになると決意。背水の陣でがむしゃらにTシャツ作りに打ち込みます。その結果は?

第2回記事『好きなことができない「精神的な死」を避けるため、3年間“死にもの狂い”で働いた』はこちら 取材・文・写真:山下久猛

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