第一級の脱出不可能ミステリー『火星無期懲役』

第一級の脱出不可能ミステリー『火星無期懲役』

 火星は地獄だ!(ジョン・W・キャンベル風に)

 世に孤島ミステリーというジャンルがある。洋上遥かな孤島に集められた者たちが、何者かの手によって次々に殺害されていく。言うまでもなく祖型はアガサ・クリスティー『そして誰もいなくなった』である。先頃、有栖川有栖が同作の2019年バージョンとも言うべき『こうして誰もいなくなった』を上梓したので、そちらをお読みになった方も多いだろう。

 孤島ミステリーの何が肝かといえば、脱出が不可能である点だ。絶対無理。誰かが船で来てくれるまで何日間かを殺されずに生き延びなければならない。そのスリルが読者にページをめくらせる原動力になるのである。同じようなサブジャンルとして嵐の山荘ミステリーという言い方がある、エラリー・クイーン『シャム双子の謎』がその好例だろう。山荘に向けて山火事がじわじわと這い上ってくる中で、探偵は謎解きをしなければならなくなる。犯人の手に掛からなくても死んでしまうかもしれない、という状況設定が緊迫感を煽るのである。これまた必読の名作と言っていい。乱暴な言い方をしてしまえば、孤島にしろ嵐の山荘にしろ「登場人物が死にやすい」ものほど読む気にさせる、いいミステリーなのである。

 さあ、そこでS・J・モーデン『火星無期懲役』だ。これは死にやすいぞ。なんといっても火星なのだから。窒息、餓死、なんでもござれだ。そんな絶望的な地に送りこまれた者がちが、さらに殺人による死の恐怖に怯えることになるのである。

 S・J・モーデンというのはこの小説のために作られた筆名で、サイモン・モーデン名義のサイバーパンクThe Samuil Petrovitch Trilogyという三部作でフィリップ・K・ディック賞も授かっている実力派だ。本書はアンディ・ウィアーの『火星の人』とその映画版「オデュッセイア」が売れたため、それを意識した作品を、という出版社の要請に応えて書いたものなのだという。だから別名義。しかしモーデンが受けてくれてよかった。『火星無期懲役』はSFミステリーのたいへんな良作になったからである。

 主人公は51歳の元工務店経営者、フランクリン(フランク)・キットリッジである。フランクは麻薬漬けにされた息子を救うために殺人の罪を犯してしまい、120年の刑期を宣告された。事実上の無期懲役である。その彼に、刑務所運営を国から請け負っている企業を通じてある提案が行われる。NASAとの提携企業として火星基地建設プロジェクトを請け負ったゼノシステムズ・オペレーションズ(XO)社は予算低減のため、普通だったら絶対に参加しない条件で働いてくれる人間を探していた。火星に行き、正規の職員たちが到着する前に基地を建設する。ただし、その作業員たちを地球に連れ戻すには莫大な金がかかるので、帰りの足は提供しない。言ったきりということである。小説原題のOne Wayはここから来ている。狭い刑務所で監視されながら残りの一生を終えるのがいいか、ある程度の自由を与えられて火星で生きるのがいいか。選択肢を与えられたフランクは、火星行きに同意する。

 彼と一緒に行くことになったのも、当然だが服役囚ばかりである。元医師、元運転手、コンピューター・マニアといったさまざまな経歴の持ち主たちが、フランクと一緒に訓練を受け、即席の宇宙飛行士として養成される。といっても飛行中はずっと冷凍睡眠をしているので、到着まで彼らのすることはないのだが。

 訓練から脱落したらそれこそ懲罰房なみのひどい環境に死ぬまで閉じ込めると脅されたり、軍隊映画よろしく鬼軍曹めいた男が訓練の監視官としてつけられたり、そのブラックがお目付け役として火星まで付いてくることになったり、とフランクたちの頭上にはずっと不吉な雲が垂れこめている。語りはフランクの視点から行われ、XO社が基地建設プロジェクトをどのように進めてきたかという議事録や通話記録の断片が挿入される。これがどうも利潤第一のひどい会社っぽい物の言いようなのである。いや、企業としてはごく普通の姿かもしれない。私は人事部にいたから思いあたる節があるが、人間を労働の単位としてしか見ていない企業なんて、こんなものである。

 そのためかどうかはわからないが、火星で冷凍睡眠から目覚めた途端にとんでもない事実が判明する。宇宙船の近くに送られるはずだったコンテナが、あちこちに散らばってしまっていたのだ。そのままだと食糧も水も酸素も宇宙船に積んできた分しかないから、目を覚ました全員がすぐに死んでしまう。生き延びるためには、はるか遠くに落ちたコンテナから資材を回収しなければならないが、貴重な足となるべきバギーの部品もまた、24キロ離れた地点に落ちているのだ。手段は一つしかない。火星の上を歩いて取りに行くのだ。もちろん途中で酸素がなくなったら死ぬ。コンテナまでたどり着けたとして、無事にバギーが組み立てられればいいが、なんらかの不具合が起きていたらやはり死ぬ。とにかく死ぬ。しかし、行くしかないのである。

 こんな風に「死ね死ね団」ならぬ「死ぬ死ぬ団」と化したフランクたちが、火星の大地上で生存のための苛酷な闘いに挑む、というのが中盤までの展開である。もちろん犠牲者も出るが、基地建設と運営はなんとか順当に進んでいく。小説の中でもっとも穏やかで安心できる箇所は、こっそりくすねてきたコーヒー粉末を低気圧下の生ぬるいお湯で作り、「おれたちに。火星で最高の男たちに」と乾杯する場面だろう。

 しかし私は知っている。物語作りの常道として、最も安心できる場面を書いたら、優れた作者であればその直後から不幸な展開を始めるはずなのだ。心配しながら読むと、案の定、とんでもないことが起きる。実は、本作が孤島ミステリーとしての性質を露わにし始めるのはそこからなのである。あることがきっかけで疑念を抱いたフランクは、相次ぐ死は偶然ではなく、何者かによって引き起こされたものではないかと疑うようになる。しろうと探偵フランクリン・キットリッジの誕生だ。

「考えるべきことが多すぎた。火星でこんなことはしたくなかった—-探偵の真似事なんて。まさしく真似事だ。どこから手をつければいいのかもわからない」

 こんな風にぼやきながらも犯人捜しにフランクは乗り出していく。切実だ。なんといっても犯人を探し当てないと、命が危ないのだから。この手の物語の読みどころは、容疑者が少なくなった後に来る。当然ひとりひとりの容疑は深まるわけで、互いに対する不信も募る。そうなってからのスリルをいかに醸し出すかが腕の見せ所だが、モーデンはうまくやっている。巻きが入って展開が速くなってからのメリハリのついた話運びもいい。結末をどうつけるのだろう、という関心にも十二分に応えてみせ、第一級の孤島ミステリーに仕上げてくれたのである。SFファンではないから、と敬遠していたミステリー読みは、絶対手に取るべきだ。読まないと損をしますよ、損を。

 訳者あとがきを読んでびっくりしたのだが、好評につきモーデンは続篇No Wayを書き始めているとのこと。どうするんだ、それ、と気になる人はぜひ本書から読んで、物語の行く末を確かめてもらいたい。なるほど確かに続篇が欲しい気持ちになるんだ、これ。

(杉江松恋)

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