加藤清正や恐竜も復活、愛のありかたを描く感動作
映画化されたヒット作『黄泉がえり』の続篇。前作同様、死者がつぎつぎと生き返る”黄泉がえり”の顛末を描く。
日本SF界における「ロマンスの王様」梶尾さんの作品らしく上品なラブストーリーの要素もあり、作者自身の地元でもある熊本を舞台としたご当地小説でもあり、そして災害に立ちむかう人間の姿を描いた作品でもある。
前作『黄泉がえり』のクライマックスでは、”黄泉がえった”ひとびとが身を挺して、愛する故郷を大地震から守りぬいた。それで”黄泉がえり”現象も終結を迎えたはずだった。しかし、それから十六年後の二〇一六年四月、熊本・大分大地震が発生してしまう。
本作『黄泉がえり』は、その熊本・大分大地震から一年三カ月後の二〇一七年七月に開幕する。熊本市内で”黄泉がえり”現象が、ふたたび発生しはじめる。前回の経験があるため、行政の対応もスムーズにおこなわれるが、こんかいの”黄泉がえり”には前回と異なる点がいくつかあった。
いちばんの違いは、前回”黄泉がえった”ひとびとは最近亡くなった者ばかりだった。こんかいは、歴史上の人物がひとり復活してきたのだ。肥後熊本藩初代藩主、加藤清正そのひとである。”黄泉がえり”は、その人物を深く思う誰かの念がないと起こらない。ふつうは親子や夫婦、恋人や友人といった間柄だ。歴史上の人物である清正の場合、そういう特定のつながりのある人間はもういない。しかし、熊本の少なからぬひとびとが、地震の爪痕が生々しく残る市街を前に、「この状況を見られたら、清正公はどう思われただろう」との感慨を抱いた。それほど清正は地元では敬愛されている存在なのだ。
行政も清正をほかの”黄泉がえり”と同等には扱えない。丁重に遇しながらも、地元ピーアールの象徴にもしようと考える。そして、清正本人もまた、はテレビを観て時代の変化に目を丸くしつつ、地元の民のために力を尽くそうと一生懸命になる。
清正は自分のことを「虎」と言い(通称の「虎之助」から)、日常会話は「城を見たがや、近(ちこ)うでよ。あそこまでこわけとる思わんで。どのようにするんがええか、かんこうしよったが」などと尾張弁で話す。そして、人懐っこく、いざというときは威厳がある。この作品でもっとも目を引く登場人物といっていいだろう。
清正以上に異色の”黄泉がえり”は、恐竜好きの少年、吉田裕馬が見つけた化石から復活したミフネリュウだ。裕馬はこの恐竜を菊千代と名づけて可愛がる。他人に知れると大騒ぎになるので、家のなかでこっそりと飼育するのだ。
さて、こんかいの”黄泉がえり”が前回のそれと違っている、もうひとつの点は、この現象が発生する場所の広がりだ。前回は熊本の広域で散発的にはじまった。しかし、こんかいは、まず市電B系統路線周辺だけに発生し、そこから染みが滲むように範囲が拡大していったのである。これにはひとりの人物が関係しているのだが、そのあたりは本書のSFとしてのキモでもあるので、ここでは伏せておこう。
ただ、その人物がピンチに陥ったとき、清正公、菊千代も含めて、多くの”黄泉がえり”が力を合わせて救出する。そのテンポのよいエピソードが、この作品の中盤におけるひとつの山場をなす。
いっぽう、物語全体を通じて問われるのは、愛のありかただ。”黄泉がえり”によって亡くなった婚約者を取り戻せた者もいれば、相手が”黄泉がえり”と知りながら恋に落ちた者もいる。前回の”黄泉がえり”では、復活したひとびとは最後には消えてしまった。あまり遠くない時期にわかれが訪れるとわかっていて、それでも恋人と一緒になりたいと思えるか? この哀切な問題が、非常に抑制の効いた筆致で描かれる。
(牧眞司)
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